2020年春の新アニメ番組
「イエスタデイをうたって」。
お恥ずかしいことに、僕は漫画好きを自認しながら、
このタイトルの原作漫画は未読である。
アニメ版を見始めたのも、
大好きな動画工房が制作を担当していたからだ。
そして第1話を見て、
そのクオリティの高さに惚れ惚れすると共に、
ヒロインの晴ちゃんの虜に、僕はなってしまった。
アニメや漫画のキャラクターに
惹かれるなんてことは久しぶりだ。
僕がアニメに回帰してもう結構な年月になる。
その間、キャラを「評価」することはあっても
好きになることなんてなかった。
都合少なくとも20年以上、
僕は虚構のキャラクターを好きになんて
なっていなかったのである。
僕の晴ちゃんへの想いはいわゆる「ニワカ」なので
ちょっと調べてみると、
晴ちゃんは既にいろんな人に愛されていた。
今更もいまさら、古典になっている節さえある。
だけど、
調べている最中に原作の晴ちゃんも見かけたけれど、
僕はアニメの晴ちゃんが好きなのだ。
ぐいぐいと来て、表情がくるくると変わる、
そんな動画工房の晴ちゃんが好きなのだ。
晴ちゃんとデザイン的によく似たキャラは
いくつか挙げられるけれど、
そのどれもを、僕はさほど好きじゃない。
いや、一人だけ、
アニメ「亜人」の下村泉は好きだったな。
でもあれはあの存在感のある胸によるところが
大きかったな。
さて閑話休題。先ほども書いたように、
僕は「イエスタデイをうたって」の原作を
読んでいないから、
ストーリーについてはまったく知らない。
だけどなんとなく、
三角関係や、恋愛への憧れ、大人への脱却、
そんな要素が絡み合うストーリーなんだろうな、
というのは想像が付く。
このパターン。
これって、八神いぶきじゃないか。
僕は八神いぶきの一連のストーリーが
あまり好きではなくて、
単行本を買ってからも
その部分を読み直した記憶があまりない。
そもそも八神のあの髪型が、
連載当時をもってしても
あまり好きではなかったのだ。
野暮ったいキャラ、
めぞんのストーリーを鈍化させるキャラ、
そんな印象があった。
晴ちゃんの描かれ方と、
八神の(僕の記憶の中の)描かれ方を比べてみると
どうにも八神は単純だ。普通の娘なのだ。
八神にはトラウマやコンプレックスがない。
幸せな娘なのだが、ゆえに薄っぺらい。
この文章を書き終わったら
八神編を読み直してみるつもりであるが、
よくよく考えたら
八神も不憫なキャラクターなのかもしれない。
その存在が、
五代と響子の間に置かれた小道具に過ぎないからだ。
彼女は、登場した瞬間から最後までずっと、
恋の成就の可能性を与えられないで動かされていた。
「作者が運命を既に決めている」
という話ではなくて、読者が
「五代と八神がくっつくかもしれない」と思うことが
まったくなかったという点で、
彼女の恋愛は読者にとって消化試合だったのだ
〈彼女にとってそれが大人への脱却という
成長を得たものであったとしても〉。
めぞんに八神を出すべきでなかったか、
というのは難しい話だが、
(所詮蚊帳の外の)女子高生の一喝が、
未亡人にどれだけ響くかと考えると
たとえ的を得ていたにせよ、
そんなに響くわけないよな、と思ってしまうのだ。
めぞん本編でなくてもよかったのではないか。
そう思ったりもする。
別の短編であれば、
八神は八神のためのストーリーを
歩くことができたろう。
「イエスタデイをうたって」と
「めぞん一刻」の対比なんか、
過去にもう何度となくされてきたことなんだろうな。
僕は残念なことに、
アンチ響子になってしまったこともあって
もはやめぞんのストーリーを
好意的には受け付けないのだが、
それでも連載リアルタイム以来おそらく初めて、
八神編を読み返すことになるのは、
晴ちゃんがきっかけをくれたおかげである。
この文章を書くにあたって
「イエスタデイをうたって」の原作者の冬目景氏が
高橋留美子作品の
非公式ファンクラブに入っていたというのを
Wikipediaで知った。
う~んそうだったか……。
高橋留美子のファンジンサークルはあまたあれど、
高橋留美子のファンクラブ、
高橋留美子ファンクラブといったら
あそこしかないよなぁ、と
星空を眺めながら思うのだが
年代的にちょっと違ってるかも。