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令和から見る「めぞん一刻」

高橋留美子さんのインタビュー動画を見た。
実はもう亡くなっていて
AIが描いてるんじゃないかと
思うこともあったんだが(嘘)、
動くお姿、描いているお姿を見ることができて
ちょっとほっとした。
内容は特に目新しいこともなかったが、
昔よりもお歳を召したせいか、
雰囲気がとても柔らかく感じて、
実際いい人なんだろうな、と思った。

インタビュー中で、手塚治虫石ノ森章太郎
池上遼一に言及していた部分で
最近考えていたことと符合したことが
ちょっとあって。

先日から読み返している「めぞん一刻」において
「相手の気持ちを汲む、思いやる、推し量る」
描写があまりにも無いことに
僕は改めてちょっと驚いたのだ。
現代の──2020年の──漫画シーンでは
受け入れられないんじゃないか、
そう思えるぐらい、無い
(八神いぶき以降は、相手の気持ちに立ったのは
九条明日菜だけではないだろうか)。

相手の心の立場に立って考えることがあまりないから
自分と相手が「うまくいく」どうか、
いまいち考えられていない
〈五代の妄想はともかく)。

響子は五代と結ばれた。
だが物語を通してみると、
響子が五代に惹かれたというよりは
五代に応えた、というニュアンスのほうが
近いといえる。
五代が響子を好きにならなかったら、
響子から五代を好きになることはなかっただろう。

五代は響子を射止めた。
美人で魅力的な女性と結ばれ「たい」。
亡夫へのこだわりを強く持ちすぎている彼女を
解放してやり「たい」。
彼女を幸せにしてやり「たい」。
相手にとって何が本当の幸せか、ということは
あまり考慮されていない。
五代はたびたび「彼女を幸せにする」というが、
それは何をどうすることなのか、
彼はあまり考えていない。

高橋留美子のラブコメ……というか
彼女の作品のラブ部分は、
異性をゲットするまでの
「少年冒険譚」なんじゃないか、というのが
僕の考察だ。言ってみれば
竹取物語」ということである。

そこには「独占欲」も必須かもしれない。
昔の男女関係。お見合いの時代の結婚観。
高度経済成長時代の、「アガリ」をめざす人生観
(「ゴール……だっちゃ」)。

概念でいえば、
高橋留美子作品の恋愛は恋愛じゃなく、
異性争奪バトル、または
恋愛シミュレーションゲーム漫画
(←書き間違いではない。五代がプレイする様を
楽しむゲーム実況動画、という意味)と
いえるのではないか。

高橋留美子さんはそういうのが好きなんだろう。
そういう漫画を描くのが好きなんだろう。
高橋留美子さんがそうであることは、
とても尊いことで
いつまでもそうであってほしいと思う。

けれど、読者側で「めぞん一刻」を
恋愛漫画のバイブル扱いにするのは、
もはやちょっと違うんじゃないかなー、
と僕は思うのだ。