今、同人誌といえばそのほとんどが
二次創作マンガの冊子になると思うが
「うる星やつら」全盛の頃の同人誌といえば
その名の通り、ファンジンを指していた。
関わった人数によって個人誌、二人誌などと
言い方を変えていたけれど、
本来はあくまでも同人で作るのが同人誌だった。
昨今は作品のファンでなくても
題材をそれにとって冊子を形作ることもあるようで、
同人誌というものが
それら物理的に薄い本を表すのであれば
日本語の変化として
それはそれで別にいいのではと思っている。
さて、「うる星やつら」の頃のファンの表現活動は
多岐に渡っていて
その中にはオリジナルストーリーや
オリジナルイラストもあった。
ファン同士のコミュニケーションにも
役立っただろうし
表現者の楽しみとしても
重要な役割を果たしただろう。
そもそも「OUT」や
「ファンロード」といった商業誌の
「if設定」がその先鞭をつけたとも言えて、
しかし遡れば漫画家達自身が
表紙絵やコマ外の落書きなどで
「もしも…だったら」のような表現を
楽しんでいたこともあり、
そういう遊びは
普遍的に楽しまれるものなのだろうな、と思う。
「うる星やつら」のファンジンで
非常に目立っていたのは
ラムをもっと可愛らしくする表現だった。
ひとくくりにし過ぎではあるが、
とてもやさしい性格にしたり、垂れ目にしたり、
内気な女の子にしたり、幼児化させたり、
といった感じだ。
あの頃は漫画やアニメに
まだまだ多様性がなかったし、
自分の好みを反映させるにあたって、
メジャー作品の人気キャラという器で
なくてはならなかったり、
まぁいろいろと
動機はあるのだろうなと思うのだけれど。
仲間内ではそういうラムのことを、
「ウェットラム」と呼称していた。
もっとも、原作の「君まてども…」や
「君去りし後」のラムも
やはり「ウェットラム」と呼んでいて、それは
そういうラムを好む、
そういうストーリーが刺さる、刺さってしまう
ファンのありように対しての、
仕分けの用語としての呼称であったと思う。
「君まてども…」は原作者が描いたストーリーなので
当たり前だが原作者お墨付きの内容なわけで、
だからその中で涙するラムというのは
間違いなくラムの持つ一面というわけなのだが、
それをいいことに、二次創作において
その部分をどんどん肥大させていき、
原作ラムとは全く別人の、
男の妄想そのもののようなラムを以てして
それが自分にとって表現すべき
本当のラムだ、と公言する。
それは改変だよなー、と30~40年経って思うのだ。
僕もさんざっぱらラムの絵は描いたし
その中には垂れ目で潤んだ目のラムもあったと思う。
それは「うる星やつらを楽しんだ」というよりも
「うる星やつらで楽しんだ」に
過ぎないのかもしれないなと思うのだ。
結構踏み込んだことを書いたので
行きつくところまでいかねばなるまい。
原作者は作品にとって神の存在であるが、
原作者による改変、というものが存在するか、
と問われたら
僕はある、と答える。
ここ数年のうちに原作者によって描かれたラムは
僕から見ると改変にあたる。
ラムは(宇宙の基準では)学力的に優秀ではないが
ある一面ではたいへん小賢しい、
地頭は悪くない印象なのだが
最近のイラストではそう描かれていない。
また、本来であれば、
自分という存在について認識があり、
そこにアイデンティティの確立を感じるのだが、
最近のイラストのラムにはそれがない。
なによりも最近描かれたこれらのラムが、
ストーリー中のあれらの名台詞を言うわけがない。
だから最近描かれたラムはラムではないと思うのだが
神がラムだというのならそこに矛盾が生じ、
つまり改変がなされたということに
なってしまうのだ。
何十年の間の絵柄の変化に過ぎないのではないか、
そう済ませてしまえないほどの違いがそこにはある。
この娘はあの鬼娘ではないのだ。
ちなみにだが、
いろいろな漫画家が描いたラム、
というコンテンツがある。
これも改変か、というと、
これらはラムだな、と思う。
絵柄なんて関係なく、
ラムをラムらしく描けばラムなのだ。
あの時怒っていたラム、あの時笑っていたラム、
あの時跳んでいたラムを描けばそれはラムなのだ。
思い出補正、という言葉があるが
ラムに関する思い出の場合、
むしろイメージは鋭く尖っていくはずなのだ。
これはキツい女、という意味ではなく、
ラムのわがままなところ、おバカなところ、
怖いところ、単純なところ、素直なところ、
そういった部分が研ぎ澄まされていくはずだ、
ということである。
だからきっと、30年を経てなお。
当時の印象を大事にしている我々のラムのイメージは
本当のラムからはそんなに離れていない。
返す返すも不思議なのは神様のほうなのだ。
本当に不思議で仕方がない。