今週は、「人魚は笑わない」レビューの後編だ。
登場していきなり湧太に攻撃される“なりそこない”。
前編、姿を現したときに“涙目”だったので
“なり損ねてしまった悲哀”みたいなものを
たずさえて登場か?と思ったのに
後編ではただのモンスター扱いである。
※雑誌の初出版はもう持っていないので
単行本化にあたって手が加えられてたらすみません。
“なりそこない”に、喉笛を掻き切られたっぽい
鰍(かじか)ちゃん(淡水魚)。
喉をやられたわりにはしっかり喋る。
この鰍の表情はよく見ると、
めったに見られない作画である。
「めぞん」の口絵でこういう表情があったような。
産まれたての子鹿が初めて立つような
感動シーンだ。
不安定な両脚もそうだが、
両腕の奇妙なポージングがたどたどしさを強調して
とてもいい。
急いで読むと、
長年虐げられて生きてきた少女が
自分の力で立ち上がったシーン、のように
読めてしまうのだが(なんか神々しい光が
差し込んでるし)、実はここは怪奇シーンである。
立てるはずのない少女が立ってしまう、
得体のしれないシーンなのだ。
この段階で既に湧太の治癒力、そして
真魚が人魚の肉を食べてそれに追随したことは
読者には明かされているが、
湧太はまだ真魚の能力について知らされていない。
真魚の頬の傷がすぐに治ったことも含めてここは、
湧太が自分以外の能力者に邂逅する場面、
というわけだ。
鰍(かじか)は鮎と顔が似ているし、
二人とも名前が淡水魚なので、おそらく同期だろう。
人魚に淡水魚の名前が付いているのは
なんだか納得いかないが、
海水魚の名前だと途端に寿司ネタっぽくなるし
サザエさんっぽくなるしで
苦渋の決断だったのかもしれない。
安らかに死にたい、という願望は
なかなか叶えられないのだろうが、
あくまで“不老長寿”であり、
“不死”ではないのだから
まぁいつかは、ね。
真魚が歩けるようになったのは
“治癒力”とは関係なく、
必要になった筋力が、短時間に増強されるという
マッスル系の超能力といえる。
この台詞は後々の別のエピソードで
布石として生かされていた、大事な台詞だ。
後世ではファンタジー系の漫画やアニメで
多用されるようになったが、
「人魚」のこの時代では
比較的新鮮味のある台詞だったように思う。
「若く生まれかわる」、これを理解するのが難しい。
鮎の一件を見る限り、
(若い人間を喰って)見た目が若くなることには
人魚的にあまり価値はないようで、
身体の組成が若いものになることが重要らしいが、
しかし若い娘の容姿に擬態しても
そこから何十年何百年?かけて老化するんだろ?
ということは“見た目の若さ”も一面では
人魚らの“若さ”を表しているのではないのかと。
鮎が選ばれちゃったのがなぁ、
インパクトはあったけど、間尺に合わないというか。
数十年に一度、一人だけ攫ってきて
モノになるかどうか十五年観察するって
効率悪すぎるだろう。
もっと規模を大きくするべきだと思うんだが
それを管理する、集落の人魚の人数が
そもそもそんなに多くないのかもしれないな。
頭を落とせば殺せるというのに、わざわざ
河豚のキモをどうやって食べるかみたいな
工夫せんでも…。
まぁ実際には対“なりそこない”の
化学兵器ということなんだろうけど。
「はい!」とか言わずに
黙々とやるべきことをやる真魚の姿が
湧太との関係性を表していて面白い。
ここでも無言で務めを果たそうとしてるし。
なぜ“なりそこない”達は
地上に這い出てこないのか。
人魚たちを畏れているのだろうか。
まぁ確かに鰍の時も、
先に手を出したのは鰍だしな。
個人的に真魚の名セリフベスト3に入るこの台詞。
特殊な環境で育てられた真魚の、
特殊な死生観が滲み出る台詞であり、
とてもSFである。
少女漫画のSFのような、冷酷さ・無情さと
人間の儚さ、同じ種としての一体感、
そういったものを感じさせる一言だ。
鰍は真魚を探す使命のために洞窟の中に入ったが、
他の人魚たちは“なりそこない”を
恐れ過ぎなのではないか。
真魚の左にあるのは何だこりゃ。
牡蠣か何かか? と思ったら
湧太の靴底か。
そこまで切羽詰まってるんだったら
多少の犠牲は見込んだうえで
“なりそこない”と対決するほうがいいだろうに。
真魚が流れてこなかったらどうすんだよ
(実際、陸に逃れられたわけだし)。
ここの婆ぁたちは、
超自然現象を崇める殉教者たちのようで
迫力のある作画だ。
たぶんだけど
このぐらいじゃあ人魚は死なないだろ。
真魚の顔を得た奴も少しはいそうだけどな。
ここでのばばの台詞は、
つまり自らを語った台詞だったわけだが
内容的にはちと苦しいな。
それはこのばあさんが、
ここに留まることを選んだからだろうに。
こういう歯列の描き方は珍しい気が。
ここでは、元の姿に戻った人魚たちに
“知性がない”とは言ってないんだよな。
まぁこの辺は「人魚」シリーズ通しての謎で、
人魚たちは何のために人間の姿になったのか、
まったく語られていないのである。
海の中に彼女らの生活があるのかどうかも
全然わからないし。
真魚と同じ“成功例”であるところのばあさんを、
人魚たちがなぜ喰わなかったのか、
これもまた謎である。
つまり、この婆さんを喰うに至るほどには
切羽詰まってない、ということになるからだ。
真魚という“完璧”を前にして、
人魚たちも焦っちゃったのかねぇ。
この台詞は真魚に語りかけているけれど
実質湧太が自分に言い聞かせているわけで、
五百歳の割には感性が若いな。
この「人魚は笑わない」における真魚は
ヒロインポジションとも言い切れないものがある。
ただの運命共同体ではなく、
湧太の貴重な“同類”であり、
それはすなわち性差を越えて、
もう一人の湧太なのだ。
ロードムービーの様式は
手塚治虫の「どろろ」のようでもあり、
そう考えると
湧太と真魚が両立できない因縁のようなものも
考えられたりしなかったろうかと思ったりもする。
また、「七瀬」シリーズのように
最期を遂げるラストも
あったのかもしれないとも思う。
そう考えると、「人魚」シリーズの最終回は
見たいような見たくないような。〈おしまい〉