「うる星」リメイクの話も
ちょっと落ち着いた感がある。
開始は4月だというから、今から騒ぎ続けても
到底持たないというのもあるかもしれないが、
一過性の消費になってはつまらないので
ぜひ、よりよい制作者と視聴者の関係を
築き上げてほしいものである。
さて、リメイクの話が出てすぐに
椎名高志氏がラムの描き方に言及していた。
中でもツノについて、
猫耳はダメとおっしゃっていたが
原作のラムのツノは(主に作画上の都合で)
頭骨からまっすぐ生えておらず、
まさに“猫耳”のように描かれていることが
とても多い、ということは、
ラムをちゃんと描こうとしたことがある人なら
みんな気付いているはず。
ツノといえばリメイク「うる星」のテザーPVでは
こうなってて、
あぁそうしましたか!と思った。
なかなか思い切りましたね。
先週ちょっと言及したが、
令和版「うる星」のKVのイラストには
いろいろと思うところがある。
それを書き連ねる前に、
僕がこのイラストを「大好きだ」ということは
声を大にして言っておく。
さて、このイラストを初めて見た時、
40年(実際には三十ウン年)の時を超えて
ラム、及びラムを擁する「うる星」の
“エロチックな魅力”について
やっぱりそうだよね、と僕は思った。
このイラストを一言で表すならば
「ラムの肢体」である。
長い脚は綺麗に折りたたまれている。
顔と胸と脚はとても近いところに配置されていて、
だからその胸も脚も、見たいだけ見ていい。
これはラムを擁する「うる星」が
かつて大ヒットした大きな要因だろうと
僕は思っている。
今の人には想像もつかないかもしれないが
アニメ「うる星」放送開始の頃の日本での
女性の裸身(全裸であれ半裸であれ)に対する
中高生、大学生のアプローチは限られたものだった。
社会人向け週刊誌にはヌードグラビアがあったし
ドラマやバラエティでも
時にラブシーンやポロリがあったりしたけれども、
それらはあくまでも大人の領分であった。
子供から大人への過渡期を過ごす
中高生、大学生たちには
欲望のはけ口という意味合いの
エロコンテンツも魅力的だったが、
異性への“興味”を満たすことも重要だった。
異なる身体を持つ異性が
すぐそばにいる生活とはどんなものだろう。
ラムが体現したのは実にそれだった。
ラムの事をプラトニックに
好きだった人もいるだろう。
何を隠そう僕もそういうつもりだった。
しかしでは
ラムが半裸じゃなくても好きだったかと問われると
あまり自信がないし、
きっと“すごく好き”ではなかったろう。
いや俺はしのぶのほうが好きだった、
おユキさんのほうが好きだった、
そういう人も多いと思うが
だったらもし、ラムが半裸じゃなくても
「うる星」に引っかかっていたかと聞かれて
そうだと胸を張って言える人は少ないだろう。
僕らが「うる星」に惹かれるうえで
虎縞ビキニまでいかなくても、
ビキニアーマーやレオタードスタイルぐらいは
必須だったように僕は思う。
肌の露出が少ないラムが地面を“歩いて”いたら
それはただの御坂美琴なんである。
御坂美琴にラムの代わりは務まらない
(御坂美琴は御坂美琴で魅力的だが)
(黒子のほうがかわいいが)。
グラビアのような大人コンテンツの中ではなく、
学校で、教室で、ファンタジーの舞台で、
同級生や、僕らの好きな“メカ”と
共演したりしてくれる半裸の少女、
それが「うる星」の魅力だったのではないだろうか。
今でこそ、秋葉原を歩けば、
深夜アニメを見渡せば、
本屋でラノベの平積みを眺めれば、
半裸コスチュームの女の子を
わんさか見ることができるけれども、
半裸の女の子というコンテンツは
当時はそんなに市民権を持っていなかった。
市民権を持っていなかったのは
彼女らキャラと同時に、
僕らのような消費者側もであった。
ラム以前は、半裸の女の子の絵を描くなんて
許されることじゃなかった。
それは“変態行為”だった。
しかし、ラム以降は、
独りでラムを描く分には、
裸を描いてるんじゃなくてラムを描いているのだと
思い込むことができた。
ラムの魅力の一つに空を飛べることがあるが、
しかしそれは“移動方法”として魅力的なのではなく
その事によって、さまざまなポージングを
とらせることができるから魅力的なのだ。
女の子の身体の見たいところを
見えるような恰好をとらせられるから魅力的なのだ。
これは、可動フィギュアで遊ぶ気持ちと
近いのかもしれない。
原作の「大ビン小ビン」(26-5)
や、「妄想フーセンガム」(26-8)
の、これらの絵からは、上記のような意味合いを
僕は感じ取るのだが違うだろうか。
そして、新アニメのキービジュアルは
それをもろに受け継いでいると僕は感じたのだ。
ここまで述べてきた内容は、
女の子キャラを性的に搾取していると
いえるかもしれない。
もしそう区分されるなら否定するものではない。
ジェンダー論に巻き込まれそうなテーマにおいて
お前はどちらの味方なのか、
どちらに塩を送っているのかといわれそうだが
本当のことだ。
ただ、射精を最終目標とした性的欲求とは違って
好きなものを愛でる、愛する、
そういうところに喜びを見出す比率は非常に大きい。
それは、例えば
美術絵画の裸婦像と何が違うかといえば
何も違わない気がする。
まぁそんなに高尚なものではなくて
筒井先生や豪ちゃんの描くような、
下世話で、そして人間くさい欲望にまみれた
“人間賛歌”の考えに従っているだけなのだけれども。