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批評と批判


年をとったせいか争いごとがしんどい。

もう結構前から、自分の主義主張を
他人に共感してもらうことに
あまり価値を置かなくなってきた。
まぁこれは自分の生活に支障がない限りにおいて、
ではあるけれど。

自分が人からどう見えるか、ということに
興味がなくなってきたせいもあると思う。
子供が育つにつれて自分の優先順位は下降し、
自分を(内面外面共に)飾ることに
振り分けるリソースが
少なくなってきたことも大いに関係あるだろう。

説明は尽くすけれども
理解してもらったうえで、
同調されなくても別に構わない。


ただ、道理そっちのけの議論は
自分でもしたくないし、他者のそれを
はたから見ているだけでもしんどい。


昔からの、ゲハ板の抗争のようなノリが
どうにも苦手である。
相手を屈服させることが
主目的になっているようなやりとりは
見ていて気持ちのいいものではない。

優劣を競いたい気持ちは
特に若年層などにおいてはわからんでもないが
勝ったから勝者側が満点になるということはないし
負けたから弱者側が零点になることもない。
60点vs59点、という勝負もあるだろうし
両者ともに合格ラインを越えた61点vs62点という
勝負もあるだろう。
一般的に、長所があれば短所もあるのが普通だ。

そもそも優劣をつけたからどうというものでもない。
相手を貶めても自分には加算されないのだ。


web上の一部の界隈では
「覇権」という言葉が取りざたされているが
本来その覇権という評価をどう利用するかといえば
広く話題になりそうなものに乗り遅れずに
アクセスしたいときのための指標とするのが
有意な使い方といえるだろう。

かといって、覇権でないことが負けではないし
他人との共有にこだわらず
自分の好みに殉ずるのであれば
他人の評価ではなく
自分の評価を絶対基準にするべきである。

それが世間でクソ呼ばわりされていようが
自分が好きならそれでいいと思う。

良し悪しと好き嫌いは別のことなのだから。

それを身に纏っている自分を見てほしい、ではなく
例え無人島に独りぼっちの状況であっても
自分はこれが好きなのだ、ということが
心の拠り所になるのではないだろうか。

そしてその時、
やっぱり“満点”なんかないんだと思う。
しかしそこにある欠点すらも
つきあっていくべき“連れ合い”なのだ。
欠点に対して盲目になるのはいいことではない。

そう、自分の推しを持ち上げるために
欠点を認めないのはよくない。

なぜというに、自らの審美眼の正確性を
毀損することになるからだ。
正確な物差しを持っているからこそ
褒める評価に価値があるし
批判にも価値が出る。

ダメなものはダメと言わなくちゃならない。
それは愛情の有り無しではない。

また、他者からダメと言われたら
素直に耳を傾けてそれについて考え、
本当にダメだったら、
「確かにダメだった」と認めたい。

ダメなところはこれこれこういうふうにあるけれど、
他にいい部分がこれだけあって
総合的に自分は“好き”なのだ。
そういう気持ちには、誰も文句をつけられない。


ただ逆もまた然りであって
“嫌い”という気持ちにも他者は関与できなくて。

そこに誤解がない限り、
“そういう人もいる”と考えるしかないだろう。
そのことで傷付く必要はないし
傷付かないメンタルを持つべきなんだと思う。




あとねぇ、
“批評する楽しみ”ってのはあるよねぇ。
これははっきり“年寄りムーブ”だけれどもさ。
自意識過剰、承認欲求、
そういわれても仕方がないが超楽しい。
ものごとを、批評のオカズにする、という
楽しみ方は歴然としてあるので、
「嫌なら見るな」というのはちょっとね。

太古の昔にも
「今の若者は」という概念はあったらしいので
これはもう根絶することは無理でしょう。

ミュートすることもできるだろうだけど
欲しい情報とトレードオフになっちゃうし
まぁなかなかね。
みんななんとか折り合いつけているわけだし
それが社会というやつなのかもね。〈おしまい〉