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「高橋留美子本」の「うる星作品論」を読んで

 

結構前に買ってあった「高橋留美子本」。
実はまだほとんど読んでないです。

なぜと言うに、
ここのブログで作品のレビューを書くにあたって
あまり影響を受けたくないからなのですが、
そろそろちょっとずつ
手を付けてもいいのかなと思いまして
今回はその中から
藤津亮太氏による『うる星やつら』作品論、
「あのころ僕らは友引高校に通いたかった」

を見ていくことにします。


うる星やつら』といえば友引高校である。

初っ端の書き出しからで申し訳ないけれど、
僕はあまりそうは思わない。

単純にフィールドということでいえば
錯乱坊がテントを張る空地や
ランがUFOを駐機している空地も必要だし
あたるがガールハントをする商店街も必要だし、
そもそもあたるがラムと同居(?)する
諸星家が必要である。
友引高校だけで足りるものじゃない。

それに
(後段で藤津氏も書いていらっしゃるが)
「うる星」には“社会”(秩序)が不可欠であるが
しかし友引高校で共に過ごすクラスメイトたちは
まだ未成熟な高校生ということもあり
──そこが魅力なのだが──
利己的で、自分の都合を優先する
欲望のカタマリでしかない。

しのぶの綺麗ごとも面堂の建て前論も、

モブ女子のあたるへの文句でさえも、
本人の損得勘定によるものだ。

※このことは、藤津氏の書いている

うる星やつら』の登場人物たちは、程度の差こそあれ、
みな下世話な欲望で駆動され、
異世界〉を日常の中に均していく
キャラクターたちなのである。

 に等しいが。

だから(それこそが青春真っ只中の高校生であり、
それはそれで魅力的なのだが)
友引高校の生徒たちは
=(イコール)社会ではない。

「うる星」において“社会”の役を演じているのは
友引町だ。

鬼星の連中は地球を侵略しに来たし、
石油を吸い上げられたのは世界各国だし、
ブラックホールに消えた自衛隊機は
日本国の存在を感じさせるが、
地球や世界や日本はこの作品中では“概念”であって
あまりはっきりとは見えてこない。

あたるの起こす珍事件に怒鳴り込んでくるのは
友引町の住民だ。

異星人の侵略という大スケールの事件に対しては
世界中が注目していただろうが、
沿道で応援し、罵声を浴びせていたのは
誰ともつかない民衆であり、近所の住民たちだった。

そのスケールのアンバランスさがまた、
「うる星」の魅力でもある。
意図してそうされたものであり、
予算がなくてそうなったわけではない。

その辺りの“小市民”への熱の入れ方、抜き方は
高橋留美子氏が好んでいた筒井作品と
たいへんよく被っている。


脱線するが、だからそれを早々に見抜いた
昭和アニメ「うる星」は
今にして思えば鋭かったと思う。

初期キービジュアルが示すように
“友引町” “あの辺り一帯”が
何かが起こる空間なのだ。


また「八頭身」というのも重要なポイントで、
そうでなければ『うる星やつら』のキャラクターが
ここまで人気を得ることはなかっただろう。
読者がキャラクターに思い入れるには、
ある程度のリアリティが必要なのだ。

ここは大いに頷ける部分である。
ディフォルメしていないこと、等身大なことが
重要なのだ。

ゆえに「うる星」後半で
(地球人の)メインキャラクターたちが
超人化したのは
まことにもって残念なことだった。



作家の橋本治は、(中略)
高橋留美子のすごいところとして
「描かれてしまったことは、すべて存在してしまう」
という点を指摘している。

引用の引用になるが、これは面白い話だった。
全部引用するのは申し訳ないぐらいなので
amazonのリンクを貼り付けておくが

www.amazon.co.jp

どうやら現在は廃刊になっているようだ。
高橋留美子本」のほうはまだ買えるので
興味がお有りならご参照いただきたい。

ただ先に書いた「超人化」にも通ずる話であり、
俗世に潜む面白さを捨てることでもあるので
一概に賞賛だけで済む話でもない気がするが。


超人化についてはもう少し書いてみたい。

初期3巻の面堂登場回において

あたるは分身の術を使っているが
このコマにおいて、
あたるは実際に分身の術を繰り出しただろうか?

僕の“感じ”だと、あたるはここでは
分身していない。超能力を出してはいない。
そういう能力を持ってはいない。

彼はまだ人間であり、だからこの“影分身”は
あくまでも漫画的表現というのが
僕の見立てである。

そういうこともやりかねない奴、
という表現なのではないかということである
(これはわかってもらいにくいだろうが)。

「『さっと避ける』たりしてな!」という
教室での高校生同士の妄想、他愛もないバカ話、
そういう感覚なのだがおわかりいただけるだろうか。


あたるは「絶体絶命」(1-5)において

相当な電撃攻撃を受けても死ななかったが
これも漫画的表現であり、
彼が実際に落雷レベルの感電に
耐性があるわけではない。

それが回を重ねて超人化していくことで
「そうはいってもたいがい大丈夫だろう」と
マンネリズムを醸し出していったのは残念だ。

その一方で、マンネリからは
例えば ボーイ ミーツ ガール における
ルパの感電ヤセ我慢のようなギャグも生まれるので
一概に言えることでもないのだが。


藤津氏の作品論は
友引高校に回帰する形でまとめられているが
これは、“彼らのいるその場所、その空間”への
憧れということでもよかったのではないだろうか。

そうであれば、僕ももちろんそうだし
あの頃「うる星」に心酔していた
誰もがそうだっただろう。

その“没入感”を得られることが
“いい漫画”の条件のような気がする。〈おしまい〉