ぼちぼちと更新していければ

(毎週末の更新を目指しています)









ショートショート 『ビビットなステージ』


夕食を終えて、いつものように
食器を下げ場に持っていったあと
エス氏はふたたび食堂に戻った。
今日は外から、劇団がやってくるのだ。


演劇をやるというその知らせを聞いたとき、
エス氏の心臓は早鐘のように高鳴った。
もともと演劇が好きで、
学生時代には仲間と競い合うようによく見たし、
演劇を肴に語り合ったりしたものだった。
だが就職して
仕事に家庭にと明け暮れているうちに
演劇に費やす時間はどんどん減っていき、
いつしか演劇からは足が遠のいてしまっていた。

年をとってこどもが独立し、妻に先立たれて
施設に入所してからは
好きに使える時間は増えたが、
その頃には演劇は
世の中の娯楽ジャンルからは消えてしまっていた。
電脳アルバムで昔の記録を眺めたりするのが
今のエス氏の、演劇とのわずかな繋がりだった。

しかし今日は、
あの懐かしの演劇が目の前にやってくるのだ。
昔よく通ったホールのような
設備の整った舞台ではないけれど
食堂の奥の娯楽場には大きな音響機械もあって
エス氏の興奮を促すには十分だった。

18:00 に開幕するということだったが
30分前には、各部屋からぞろぞろと
入所者が集まってきた。
皆、娯楽に飢えているということもあったが
演劇という、ノスタルジックな演目が
興味を引いたのだろう。

客席に並べられたのはいつもの折り畳み椅子で
演劇にうっとりするには物足りないが
それでも、大勢で演劇を鑑賞するのは
あの頃に戻ったような気分になれて
エス氏は幸せな気分だった。

「あの、あなたは演劇はよくご存じなの?」
隣に座った婦人が話しかけてきた。
「昔好きだった時期がありまして。
しかしそんなに詳しいわけじゃないんですよ」
「あらそうなの。私は一度も見たことがないわ。
でもミュージカルはよく見ましたのよ」
「演劇とミュージカルは兄弟みたいなものでしょう。
むしろミュージカルは規模も大きくて、
立派な興業が多かったんじゃありませんか?」
そうねえ、といって婦人は少し微笑んだようだった。

安物のマイクを通したような声で
開演が告げられた。
ステージは暗くなり、
客席の期待感も高まっているようだった。

うるさいほどのBGMとともに、
舞台の上に派手な衣装の役者が登場した。
男と女だ。
スピーカーからは彼らのセリフが聞こえてくる。
どうやら演目は、エス氏のよく知る物語のようだ。

物語は目まぐるしいスピードで進んでいく。

知っているストーリーのはずなのだが
エス氏には話を追うのが難しかった。
何度も訪れるヤマ場は迫力満点だったが
なぜそのヤマ場になったのか、
今そのヤマ場にいる登場人物はどういう人物なのか
エス氏は把握できずにいた。

年をとったからだろうか。しかしこれは。

役者たちはシーンに合わせて表情もくるくる変わり、
アクロバティックな演技もこなしていた。
だがよく見ていると、
なんだか動きがぎこちなかった。


エス氏の斜め前に座っていた老人が
写真を撮ろうとしたのか、
タブレットをかかげて何やら操作した。
次の瞬間、タブレットから
強い光が役者に向かって照射されたのだが
その光を受けた役者の顔は、
真っ白い のっぺらぼうだった。
「きゃっ」と何人かの婦人が声を上げた。

素早く老人に近づいた係員がタブレットを下ろさせ、
ステージは何事もなかったように続けられた。
セリフやBGMに紛れるように、
小さな声でアナウンスが流れた。

「……ご覧の皆さまにお願い申しあげます。
当バーチャル演劇は
プロジェクションマッピング技術を用いており、
客席から明るい光をお向けになりますと
演劇の進行に支障が発生いたします。
そのような迷惑行為はおやめいただきますよう
お願い申し上げます……」

役者はロボット達だった。
真っ白いその樹脂のボディに、
極彩色の画像を投影して舞台に出てきていたのだ。
彼らの表情も、よく見るとデータの投影だった。

役者の一挙手一投足について
少しテンポがおかしいとエス氏が感じたのは、
投影と動作の同期をとるための
わずかなタイムラグのせいだったようだ。
歩いたり走ったりする動作の不自然さも
ロボットの靴裏に仕込まれた車輪が
動きを補佐しているからだろう。

考えてみれば、今の世の中で
まともな演劇が気軽に見られるはずがなかった。
演劇ができる役者は一握りしかいなかったし
高額な報酬を要求する彼らの演技を楽しむなど
普通の庶民にはもう手の届かないことだった。

演劇は、もう失われてしまったのだ。

だからエス氏は、この演目を楽しまなければと
好意的な気持ちを精一杯広げて目を見開いた。
ニセモノではないのだ。
これが、新しい興行なのだ。
多くの人がこれを楽しんでいて、
これで十分だと思っているのだ。
高望みも、懐古趣味も、悪行なのだ。
そう、せっかくやってきてくれたんじゃないか。
その恩義に報いるためにも、
がんばって笑わなければ!


「……素敵だったわ」
「にぎやかで、楽しい気分になりましたな」
「衣装もカラフルで」
「音も大きくてよく聞こえて」
「セリフもわかりやすかったですわ」
明るくなった娯楽室で、入所者たちは上機嫌だった。
隅のほうで3人の老人が何か怒鳴りあっていたが
誰も気にしていなかった。

隣の婦人が無言で立ち上がり
後ろに歩いていったので、
誰かに表情を見られる心配はもうなかった。
エス氏は引きつったような笑みをやめて、
沈んだ顔で立ち上がった。


娯楽場の出口では、
興行の記念品が売られていた。
その中で一番高価な
主演女優のアクリルスタンドに印刷された表情は
劇中のヤマ場で、ロボットに投影された表情と
まったく同じ顔だった。


〈おしまい〉