令和アニメ『うる星やつら』の放映中の
ネガティブなコメントのなかに
「結局、(原作としての)『うる星やつら』は
古いのだ」という意見が一定程度ありました。
「だから笑えない」、と。
ですが『うる星』で披露されていた“笑い”自体は
2024年現在でも他の作家の作品で
ガワだけ替えて使われていたり
あるいは現代のギャグの基礎となっていたりと
そうそう捨てたものじゃないと思います。
ただ、環境は変わった。
若い人のコミュニケーションの形が変わり、
また全体的には社会が厳しく・貧しくなって
“なんとかみんなで生き延びなくては”という
感覚が共有されるようになってきた。
漫画好き、アニメ好きという
フィルタリングされた集団の中では
意識の共有はより顕著なんじゃないかと思います。
作品によって啓蒙され、
その啓蒙された感覚を以て新しい作品を求めるから
次に提供される作品も、
よりそれを煮詰めた物になる。
僕の狭い知見の中でいうと
現代の漫画やアニメには“嫌なヤツ”が
少なくなったんじゃないかという気がします。
なかにはいるけれど、そういうキャラは
相応の罰や処分を受けることで
読者/視聴者の嫌悪感を抑え、納得を得る、ような
(読者の“嫌なヤツ”への耐性が減少したのでしょう)。
その結果、
登場人物がみんな “いいひと” なんですよね。
ちょっと前まで、そういうのは
まんがタイムきらら枠と呼ばれていましたが
それが広がってきた感じがします。
それは他者への関わり方において顕著で、
例えば他人を下げることで
自分を上げるようなやり方は
もはや人気を得られないし
他者に攻撃的であることも
マイナス要素としてしか受け止められない。
僕自身が“とんねるず”や“ダウンタウン”といった
攻撃的なエンタテイメントを享受してきており、
全然人ごとではないのですが、
とにかく、時代は変わった。
さて、うる星やつら『風邪見舞い』(26-6)です。
シリーズ全体を通しての
ラムのわがままさや暴力的なところを
まとめて“いなす”エピソードであり
ラムの伝家の宝刀でもあるのですが、
僕たちが生きているこの2024年は
「悪気がないからでは済まされない」
という時代でもあります。
広く寛容性を求める社会でありながらその実、
シビアな自己責任を求められていますし
誰かの無配慮のせいで共倒れ、なんていうことが
忌避される世の中です。
そのせいで『風邪見舞い』における
このラムの性格の分析は、
“昔は面白く感じたものが改めて読むとイマイチ”
となる筆頭のように思うのです。
さて、『風邪見舞い』では
なぜそんな性格分析をしたのでしょうか。
『うる星』シリーズ後半において
異端児であることをやめたラムに悪気がないことは
言われなくても読者にはわかってることで、
それをここで改めてアピールしたのは
なぜだったのでしょう。
読者にとっては公然の事実なのですから
このアピールはラン向けであります。
しかしランは、無意識では既に
ラムの性格の良さに気付いており、
時にそこに甘えたり利用したりしています。
つまり、今までなんとなく曖昧だった
“ランの、ラムへ憎悪を持ち続ける役どころ”を
解いた、っていうことなのでしょうか。
はっきり“仲直りさせる”ことが
そんなに重要なのか、とも思うのですが
ラムとランの関係が変わらない限り
ランの登場回はマンネリループから抜け出せず、
そのことが喉に引っかかった小骨のように
気になり続けていたのかもしれませんね。
だから『風邪見舞い』は
ランのエピソードに見せかけた
ラムの性格アピール、に見せかけた
ランの後始末エピソード、だったんじゃないかと
僕は思います。
まぁこの後でもランは
「読めたでラム」とやっていますけれども
悲壮感はなくなったというかなんというか。
四次元の森でいつまでも永遠に
「レイさん、あ~ん」とやっているのが
『うる星』におけるランの終着駅だったのでしょう。
それはとっても素敵だなって。
〈おしまい〉