最近毎週楽しく観ているアニメ
『負けヒロインが多すぎる!』、
主役になれない男子高校生が主役(?)なのですが
この作品(アニメ版)に出てくるモブの女子たちが
みんな可愛いともっぱらの評判です[要出典]。
この作品の学校生活では、
個々の学生たちにそれぞれ人生があるのだ、
ということを、
かなり意識的に描いているように思います。
最近の学園ものではそういう傾向が
多いのかもしれませんが。
それが
群像劇かっていうとそう言いたいのではなくて、
群像劇の群像の外側にいるモブ、
つまり台詞や演技すら与えられていない人たちも
ちゃんと人生を持った人間なんだよ、と
わかるようにしてあるって感じかなぁ。
で、原作『うる星やつら』を見てみますと
初期であればあるほどモブそれぞれが
それぞれの人生・生活を感じさせる描写を
されているんですね。
(2-2 性)
ただ回を追うごとに
主役たちのストーリーの後押しをするために
動くことが多くなってくる気がします。
(5-1 妖花・サクラ先生)
脇役が、主役を引き立てるための存在であれば
まぁそれはそうなのですが、
学園ものにおいて、それって正しいのかな。
主役級のキャラたちは
まぁ言ってみれば“一軍”なわけです。
そして“二軍”は“一軍”のために存在している。
ストーリーを際立たせるためのそれは
当然の構成であるのだけれども
学園ものにあっては
たいへんにマッチョだな、という気がします。
乱暴な比較だけど、
(12-7 命かけます、授業中!!)
これと、
(27-11 反省座禅会)
これの違い、かな。
面堂家のイベントに、
主役の面々だけが呼ばれるのは別にいいんですよ。
でも校内の描写でこういうヒエラルキーを
がっつり描かれると、
ちょっとしんどいなぁ。
その辺り、最近話題に上っていた
歳を取るとこのラーメンハゲになるんだよな pic.twitter.com/w0Woj6GwMG
— ゆっくりライアン (@sp8a79) 2024年9月4日
にちょっと近しくて、でも違ってて、
モブのこともちゃんと認識したいっていうか
モブのことを見えなくていい世界は嫌だというか。
まぁたぶんそれも、実生活の反動だと思うんだけど。
とりとめがなくてすみません。
〈おしまい〉