『めぞん一刻』は途中から方向転換して
五代くんと響子さんの恋愛ものになりましたが、
初期の、群像劇における美人の管理人さん、
という設定は それはそれでたいへん魅力的でした。
ではその方向転換のタイミングはいつだったのか。
ま、少なくとも響子さんが
ヤキモチを焼き始めてからは
恋愛ものになったといっていいような気がします。
となると、こずえちゃんが登場した
『複雑夜……』(2-5)でしょうか。
でもこれがヤキモチかというと
ちょっと違うような気もしていて
そもそも自分だって三鷹とデートしていることを
棚にあげてるわけですし、ここでのそれは
五代くんの優柔不断さに対する怒りと
自分が軽く扱われたことに対する怒り、
なんじゃないかなと思います。
いってみれば、続く『桃色電話』(2-6)での
女性からの着信の多さへの怒りと同じ種類では
ないでしょうか。
当事者としてのヤキモチでは、ない。
その後もあまり直接的なヤキモチ描写がないまま
『三年待って』(3-10)に入っていきます。
ここでは響子さんが
自分が恋愛当事者であることに自覚的になっており、
もはやトボけた管理人さんではなくなっている。
『めぞん一刻』もここで既に変質していると
いっていいでしょう。
響子さんはいろんなところで
“女神”と呼ばれているけれど、
憧れを越えて実際に恋愛可能な対象になった時点で
女神を降りて、堕天したんじゃないかな。
じゃあ変質したのは『三年待って』なのかというと
『三年待って』は“事後”であると思います。
変わったタイミングはその前にある。
『三年待って』から遡っていくと
明らかに響子さんの描写が変化した所があります。
『家族の焦燥』(3-5)です。
ここでは、
響子さんが一刻館周辺では決して見せない
“娘”としての立ち居振る舞いをします。
それまでも彼女の居室などをはじめとして
響子さんの密やかな行動は描かれていましたが、
それはきっちり“一刻館の管理人さん”としての
振る舞いでありました。
読者の視点は神の視点ですが、
それまでは
神の前ですら彼女は“管理人さん”であったわけです。
それがこの『家族の焦燥』で変化する。
管理人ではない部分を見せてくる。
ここから、
(あえての)余所余所しさをやめた、
見えない部分を見えないままにするのを
やめたといえるのではないでしょうか。
それは、彼女が五代くんや三鷹さんと
同等の立場まで降りてきたことを意味します。
だからターニングポイントは、
ここかなぁと思うのですがいかがでしょうか。
創作には“アパートもの”や“ホテルもの”という
ジャンルがあるそうなんですが、
それらは“一期一会”がキーワードでしょう。
しかし好きよ嫌いよ、となると
縁以上の縁ができてしまう。
そうなると別れも特別な別れとなる。
ただの“青春の1ページ”ではなくなってしまう。
まぁ『めぞん』でも疑似的にはやってるんですけど。
↑『夏の思い出』(4-6)とか。
あと『夏色の風と』なんかもそうでしょう。
初期のまま続けばそういう
“一期一会”でのラストが見られたのでしょう。
この歳になると、
そっちも見たかった気がするのですけれど
それは“恋愛ver.”を見届けたから
いえることなのかもしれません。
〈おしまい〉