やっぱり放っておけなくて
『鏡が来た』のレビューを続けます。
前回はこちら。
この作品にトピックは3つあって、それは
・「踏みつぶして鏡から出す義務」
・「気づいていたけどやりすごしたこと」
・「たまたま近くにいた人が助けてくれたこと」
であります。
まず初めの
「踏みつぶして鏡から出す義務(浄化)」について。

踏みつぶすのは、人の邪心であるわけですが、
論じるまでもなくそれは物語中でも
“わるいもの”と定義されています。

友人が瑛人にヘッドロックをかけてきたのも
邪心によるものであり、
その邪心は浄化/取り除いていいもの、
いや取り除く義務が生じるもの、となっています。
被害者が被害と感じたらそれは被害ですが
これは相当、シビアな判定に基づく世界ですね。
そもそもそのヘッドロック自体が
悪意で行われたとするから
それを排除しなければとなるのでしょうが、
人間そんなに単純ではなく
親近感のあらわれであったりもするでしょう。
男子高校生同士ならなおさらです。
しかしもうそれを許す・許し合う社会では
なくなっているということになりますね。
日本では法律というものがあって
社会のルールを逸脱することは禁じられていますが、
ヘッドロックは些末過ぎて罰せられないところを
それはあきらかに犯罪であるから浄化/粛清する、
ということになります。
法律の手が回らないところを補う、
それはつまり“私刑”なんですけれどね。
物理的な実力行使に出なくても
社会的に抹殺することは可能で、
例えばナントカハラスメントを訴えれば
相手は社会的に死んでしまう。
そういう現実世界の実情もあり、
『鏡が来た』のこの浄化は人ごとではない。
『鏡が来た』では、その“浄化”を
皮肉として描いている感じはありません。
例えば創作活動における言葉狩りに対しての
反論という雰囲気は全くない。
本気で、「わるいものは潰していかなくちゃ」、
「それが一人一人の義務である」と描いている。
ウスラボンヤリ、ではありますが。
その「わるいもの」って
どこからどこまでなんでしょうね。
もちろん程度問題ですが、
友人のヘッドロックは入ってしまうわけです。
漫画の描写を見る限り、
あの友人はおそらく、知らない生徒には
ヘッドロックをかけない。
また、瑛人がイジメやすい奴だから
ヘッドロックをかけたわけでもない。
瑛人なら(本人から)許されそうだから、という
甘えはあるにしても、
自分のストレス解消のために他人に危害を与えたい、
肉体的苦痛を与えたい、と思ってやったのでは
ないことは読み取れます。
しかしそんな甘えも失敗も
『鏡が来た』の世界では許されない。
ある意味で、“理想社会”です。
そんな世界で、しかしなぜか
瑛人が“浄化をサボった”ことは許されます。

私用を優先して役目をおろそかにした。
後に大きな事件となったことを考慮すれば
これは大きな過ちですが、
そのことで罪には問われない。
そこに邪心の介在は疑われない。
それは“よこしま”ではないのか?
“浄化”に伴って吐き気などの体調不良を
伴ったとしても、その浄化という役目自体は
特権階級といえます。
粛清という言葉に絡んで“憲兵”や“特高警察”
なども思い出されます。
その特権階級が、
自らの失態には甘い、というのも
イヤな感じを受けます。
瑛人が「やり過ごしてしまった」ことは
後の後悔も生んでおり、
“もう一度やり直せるならば”という if の願望にも
繋がってくるわけですが、しかしそれは
“今度はちゃんと「義務を果たす」”であり
誰かが決めた規則に従う範囲を越えていません。
それはまた、
「たまたま近くにいた人が助けてくれたこと」でも
同じです。

助けてくれたのは鏡を持っている階級の人であり、
人間の互助や善意、正義感とはちょっと違う。
いったいここでいう“邪心”とは、
なんなのでしょうか。
法律を越えて、一部の人にとって不快なもの。
不快であるから踏み潰してもいいもの。
人によっては、その身体を構成するのは
邪心だけであり、他には何もないこともある。
何だろう。ちょっと気持ち悪い。
ミスリードを誘っているのかもしれないし
辛辣な問題提起なのかもしれないけれど、
普通に読んだだけだと
都合の悪いものの排除、という雰囲気を
色濃く感じて、たいへんに気持ち悪い。
人間社会なんてそんなもんさ、という
シニカルな論調でもないし。
できればこの『鏡が来た』は
失敗作であってほしいです。
すみません適当に描いちゃいましたテヘペロ、
のほうがよほどいい。
というか、編集さん仕事しろよ。
〈つづく〉