(前回の「その2」はこちら)
『鏡が来た』は
どう見ても啓発を目的とした作品です。
なんらかの宗教の小冊子に載っていても
たぶん違和感がない。
あの大事件以来、
カルト教団に限らず
社会は宗教に対して敏感になりましたから
この『鏡が来た』に対しても
ザワザワするものを感じてしまいます。
菜々と瑛人に課された“義務”は
お役目、お務め、まぁ言い方はいろいろですが
いわゆる“国民の三つの義務”を越えた、
選ばれし者に課せられた使命ということになります。
作品中でこの“義務”が実行されたシーンは、

通りがかりの瑛人が行ったこれ。
不良が善人になったかどうかは描写されず。

瑛人がクラスメイトに行ったこれ。
邪心が再発することが語られている。

菜々が先生に行った浄化。
邪心を出し切れていなかったかもしれない。

菜々を殺しにきた先生を浄化。
更衣室で先生の邪心を出し切れていなかったかも、
と考えた後の行動なので、ここでの“出し切り不足”
は本来あってはならない。
またこの時の先生は明確な殺意を持っており
(前回の同時刻では菜々を殺害している)、
邪心はもはや過小なものではないはず、つまり
凶悪さにおいて、後の歩道橋での邪心と
差異はないはずである。

歩道橋で、復讐に燃える先生を菜々が浄化。
夜道で、先生の邪心を(一応)空っぽにしてからの
事件のはずだが新たに出現した邪心は
ずいぶん肥大したものになっている。

先生の体内から引きずり出した邪心を
踏みつけて浄化する瑛人と菜々。
ここで瑛人はバットを使っているがそれはつまり
邪心をおびき寄せる/引きずり出す行程と
踏みつけて鏡から出す行程が別々のものであり、
“浄化”はどちらかというと後者の
“踏みつけ→体内を通す→鏡から出す”のほうを
指すということが分かる。

歩道橋事件当時 近くにいた義務者たちが
浄化を手伝いにきた。彼等もかなり不快な様子だが
義務だから、自己犠牲を承知でやってきたらしい。
、というところですが
この“義務”は何を指すのでしょうか。
善良な考え方でいくとこれは
“悪いものを正していく”ことであり、
現実社会に当てはめると
“人を導く” “人の悪行をたしなめる”
“人の更生の手助けをする”などとなりましょうか。
「そんなことをしてはいけないよ」
そう諭すこと。
それがこの作品中でいう“浄化”なのでしょうか。

クラスメイトへの浄化では
言っても言っても、新しく邪心は生まれてきます。
いたちごっこだけれども、
それでも根気よく言い続けなければならない。
なるほど一理ありますし崇高なことだと思います。

しかし更衣室での浄化/夜道での浄化を経ても
先生の邪心はなくならず、
新たに肥大化して彼らに襲いかかってきた。
早い話が、手に余っています。
邪心の規模によっては、
素人が“鏡”を得たからといって
どうこうできるような話ではない。
まずは大人に助けを求めるべきです。
あるいは警察かもしれません。

事後ではなく、事前に行うべきです。
ちなみに掲載当時、ストーカー規制法は
とっくに施行されています。
いや、これホラーの少年漫画でしょう!?
そんなマジな話しなくても。
確かにそうなんですが、
『闇かけ』『笑う標的』『忘れて眠れ』とは
わけが違います。
例に挙げた3作が、それぞれ
病院、学校、山奥といったような
社会と区切られた場所での出来事なのと比べて
『鏡が来た』は、

共生する隣人の“人間描写”にも手を広げていて、
まぁそれは『高橋留美子劇場』のエッセンスを
この作品にも取り入れたということなのかも
しれませんがとにかく、
社会構造を無視できない物語になっているので
リアリティの問題ではなく
成立するかしないかの問題だと思うのです。
踏み潰して鏡から出す、のは
相対的な行為ではないので“祈り”ともいえますが
それで解決できない問題に対して

物理的なバットはだめです。それは私刑です。
私刑/リンチを行った時点で、
“鏡”を運用している何らかの“仕組み”は
それ自体が反社会的だといえます。
バットについて考えてみましょう。

まず『寄生獣』のような先生のこの姿は
鏡を持つ者だけに見えていて、
一般人には普通の人間に見えているはずです。

初回の歩道橋の後、先生は逮捕されましたが
警官に囲まれたこの状況で、
先生は人間の姿だったはずです。
つまり
周囲から見た先生はモンスターではなく人間で、
瑛人と先生のバトルは人間vs人間ということです。
瑛人と菜々はタイムリープしているので
夜道で先生が襲ってくることを知っていますが、
その未来は証明できません。

その、ただの予測・予感を以てして
バットを準備し、殴りかかるというのは
たとえ相手が連続殺人の容疑者だとしても
正当防衛とはいいづらい。
まぁそもそも気弱でおとなしそうな瑛人が
バットを持ったからといって
怪物に侵された先生に勝てるのか。
仮に勝ってしまったとして、
先生の死体が残った場合、
瑛人は殺人を犯したことになるんじゃないか。
この作品では、まだ社会が普通に動いているので
世紀末的な無法は通らないでしょ。
社会のシステムをないことにして
市井の人たちを物語に参加させるのは
ちょっと無理がある。
それは作者が作者の作品らしさを込めたかったと
しても、です。
この手のホラーに
『高橋留美子劇場』を混ぜるのは無謀過ぎる。
編集さんは仕事をするべきだった、と思います。
※『鏡が来た』について、思い残すことなく
やりきっておきたいので、もう少し続きます。
〈つづく〉