ぼちぼちと更新していければ

(毎週末の更新を目指しています)









表現者の死というもの

 

著名人、なかでもアーティストが亡くなった時に
SNSに溢れる追悼ポストがちょっと苦手でした。


悼む行為をどのぐらいの気持ちでやっているか。
その傾倒の大小は明確にあります。

思い入れの強さや関係性の濃度によって
人それぞれ違うのは当然だし、
現実世界においても
式に列席する人もいれば
その人のタイミングで黙祷をする人もいるし
しばし頭を垂れてすぐ次のフェイズに行く人もいる。


ただやっぱりSNSはコストがかからないので
話題に乗っかりたいだけの人、
いっちょかみの人、も散見されます。


webでは
気持ちの濃淡に関わらず、
お悔み会場が大きい数ヶ所しかないので
仕方ないことではあるのかな、と思いますが。


アーティストが亡くなった時に
悲しい気持ちになるのはなぜなんでしょうか。


僕はたびたび考えていることがあって
そのアーティストの新作を追っていない場合、
そのアーティストはその人にとって
既に亡くなっているようなもんなんじゃないかと
思っています。


例えば、僕は筒井康隆氏の著作について
ある時点以降のものはほとんど読んでいません。
作風もさることながら
文体が、無学な僕には少し難しくなっていて
僕にとってはちょっと娯楽といえなくなって
しまったからです(ビアンカは読んだ)。

そういう僕が、
今後 氏の訃報に接した時に
新作がこの先 出ないことを、
つまり“その才能が失われてしまった”ことを
悲しむ資格があるのかというと、
そんな資格はないような気がするんですよね。

もちろんその時は、
小松左京先生の時のように
巨星堕つ か、と感慨にはふけると思うのですが。


翻って
そのアーティストの作品に熱中しているさなかに
訃報を聞いてしまったことが一度だけあって
それは 京都アニメーションの例の事件なんですが
この時はボロボロ泣きました。

僕なんかはファンとしても浅いほうで
関係性の深い方々に比べれば
悲しみの度合いは少ないといえるでしょうが、
あそこで亡くなった方たちが新作を生み出すことが
もうなくなったのだということに加えて、
単純にその才能が、
この世から失われたのだということが
ショックでたまりませんでした。


そんなふうに
アーティストの方が亡くなった場合
作品が創られることやその才能と結びつけて
その訃報の取り扱い方を考えてしまう癖が
僕にはあるようなのですが、
先日 とある漫画家の方が亡くなって
その時に、自分でも意外なぐらい
取り乱してしまったのでした。

その方はもうずっと新作らしい新作を出しておらず
だからその点で期待はしていなかったし
昔の作品への思い出・思い入れだけで
支持していたのですが、
その方が亡くなったと聞いた時の感覚は
親父を亡くした時の気持ちにとても近くて。


好きだった歌手が亡くなった時も
こんなに悲しくはなかったんですよ。
僕の青春に裏打ちされた、
何度も歌った歌を創られた方でしたが。

歌には何度も勇気づけられたと思うし
いろいろな生き様を教えてもらったと思うんだけど、
それは例えば銀幕の俳優さんなんかも同様で
明日を生きる力なんかももらったと思うんだけど、


あの漫画は僕を救ってくれたから
特別なのかもしれませんねぇ。
たぶん、本当にすごく救われたんだろうなぁ。
本当に、一方的に、救ってもらった。



長々と語ってきましたが、
こういう話はいつかこのブログでやるつもりでした。


いつかその日は来るし、
ビッグネーム中のビッグネームなので
かなりの層が湧きたつことでしょう。

でも実際には、多くの人にとって
あの人は実質 過去の人であって。


でも、その作品に影響を受けたどころか
救われた・生かしてもらった人もいるかもしれない。


R.I.P.って書きたいだけの人もいるかもしれない。


いろいろな層が、XやFacebookやヤフコメで
一斉に追悼ポストをあげることでしょう。


それはある意味で
世界が人種のるつぼであるのと同じことかも
しれません。


それぞれの人が
それぞれの気持ちの持ちようを
大事にしていくべきなのでしょう。

その時にならないと、正解はわかりませんが。


〈おわり〉