ぼちぼちと更新していければ

(毎週土曜日中の更新を目指しています)









「エンドレスエイト」と令和「うる星」

 

natalie.mu
そういえばずっと忘れていたんだけど
僕は「涼宮ハルヒ」シリーズの
2009 年版を見ていなかった。

ということはあの「エンドレスエイト」を
見ていないということなんである。

噂上ではよく知っているし、
なんやかやストーリーも、そこで何が起きるかも
もう知っているから
ネット上の悪評も手伝って
腰が上がらなかったのだが、
配信で見れるのならこの機会に見てみようかな、
ビューティフル・ドリーマー」絡みで
時折り話の壇上に登る「エンドレスエイト」だしな。
そう考えて、見てみた。

これが、結構面白かったんである。

一番大きなところでは
ループものがいつ変化するのか、
ということへの期待感がその源流なんだろうけど、
8 話使うんだから
8 話目まで期待が裏切られ続けるということも
おおよそ予測できていたので
そのオチへの期待感だけで楽しかったわけではない。


まず僕は、京アニのアニメーションが
好きなのである。いくらでも見ていられる。
キャラの細かい動き、シーンごとのレイアウトや尺、
背景やアフレコに至るまで、
少しずつ食むような楽しみ方ができると思う。

ちょっと前に web で見た

omocoro.jp


この記事のような、丹念な楽しみ方ができる。

若い頃は、
とにかく読んだ本の数を競うようなところがあって、
先に進むことを優先していた気がするけれど
最近は本を読むのもすごくゆっくりだ。
行間を読むというか、前段との繋がりとか
なぜその言い回しをしたのかなど
その都度立ち止まって考えながら読むように
なったからである。


アニメの鑑賞も同じで、
すごく考えながら見るようになった。
アニメには“偶然がない”。
だから、制作者の意図を、
取りこぼさないように汲み取りたい。楽しみたい。
そして京アニのアニメはそれに値する。


そのことは置いておくとして、
僕は「エンドレスエイト」を見ながら
うる星やつら」のアニメのことを考えていたのだ。

原作によってその展開を把握している視聴者が
新しく提供される映像を見るのは、
エンドレスエイト」を体験することと
ほぼ同じではないか、というのが
その思考の大まかなスジである。

エンドレスエイト」自体が
視聴者とのメタ構造を目論んだ作品であり、
それについては僕が改めて述べるまでもなく
先人たちによって大いに語られてきた。

しかしそれをもってしても、
エンドレスエイト」は不評であった。

僕のようにそれが 8 回に渡って展開されると知って
視聴するならともかく、
リアルタイム勢が 8 週間/2 カ月に渡って
エンドレスエイト」に束縛されたこと、
その先に進めなかったことは
さぞ苦痛だったことだろう。

そう、キョンのように。

さんざん言われているだろうけど、
エンドレスエイト」は実験として面白いし、
その実験が実際に行われたというその事実が、
後世から見るとまた一段と面白い。

長門が観測者だったように、
後世の僕らもまた観測者である。

長門は退屈だったかもしれないが、
僕は、京都アニメーションがやってのけた
歴史的な偉業を、
ちょっとした興奮を伴って見た思いだ。

リアルタイム勢の視聴者たちが
苦しんだことも偉大だと思う。
彼らが苦しめば苦しんだほど、
彼らはキョンの気持ちを痛感したことになるのだ。

わりと羨ましい。


そして、十年以上経過しても
エンドレスエイト」は伝説として存在するし、
そこで苦しんだリアルタイム視聴者たちもまた
エンドレスエイト」を支えた一員へと
昇華したわけで、ますます羨ましい。

劇中で小泉がキョンに語ったように
デジャブを感じられるのは内側にいる者だけ。
つまり苦しんだ視聴者は内側の人間なのだから。


さて翻ってアニメ令和「うる星」である。

原作や昭和アニメとの差異を楽しむ、
ということにも限界があって、
アニメーションの不出来、演出の不出来、
構成の不出来、に対して
僕にとっては視聴が苦痛なところまで来ている。
「可愛さ余って憎さ 100 倍」とはよくいったものだ。

ただ残念なことに、「うる星」については
“腐れ縁”特別配点が 250 ポイントと
“ノスタルジー”特別配点が 200 ポイントあるのだ。
それだけで視聴を継続することになってしまう。

苦しみながら視聴しているのだけれども、
エンドレスエイト」は面白かったのに
なぜ令和「うる星」は苦しいのか。

“不満”の方向性が違うからなのかな。


エンドレスエイト」の問題は
ポリシー/理念の問題である。

令和「うる星」の問題は
でき得ることをやらない、その態度の問題である。


PA ワークスが、MAPPA が、ufotable が、京アニが
WIT が、シャフトが、TRIGGER が、ボンズが
やれるのになぜ令和「うる星」にはできないのか。

彼らは制作コストを省かなかったのに
なぜ令和「うる星」は省くのか。
それはどういう事情に起因するのか。


これはしかし例えば
“親ガチャ”のテーマとはちょっと違う。

スヌーピーの言う、「配られたカード」とも
ちょっと違う。

「うる星」の場合は、誰かがそう仕向けたのだし、
そしてそれは神の采配などという
“不可抗力”ではないのだ。


僕はアニメ業界の人間ではないから
その事業がどういうふうに回っているのか
よくは知らないけれど、
例えばこの作品のクオリティが
2 クール一括グロスを理由とする
気の緩みのせいなら、
もしかしたら後半 2 クールは
別のプロダクションに発注される可能性も
なくはない(し、僕はそれを夢見ている)。

例えば上記の、“神”制作会社に回ることも
あるかもしれない。

現状の令和「うる星」に
“満足している”と言い切る人は、
そういった“神”制作会社が作る「うる星」と
比較してもやはり、
前半 2 クールの「うる星」を
“満足の出来”というのだろうか。


自分の好きなキャラを
新しい放送で見られればいい、という意向も
あることは理解しているし、
それはそれで尊重されるべきだろう。
その一点で、令和「うる星」を
「好き」だということには何も問題がないし
そういう楽しみ方は、本能的であるともいえる。

しかしだからといって、自分が好きな作品に
低評価が付くのを認めないというのは違う。
自分が好きなものには高評価であってほしい、
というのは権威主義だ。

低レベルの作品だけど
ある一点において自分は好きなのだ、
でいいではないか。


物事は、低評価が付かないと改善されない。
だから低レベルなものには
低評価を付けるべきだし、
全肯定などめったなことではしてはならんのだ。




Twitter でもリツィートしたが

trend-tracer.com


sensiki さんによるこのブログは
令和「うる星」の持つ問題点を視覚化していて
とてもわかりやすい投稿だ。

批判したことを以て、この方を
「うる星」愛がないというのは間違いで、
めちゃくちゃ愛情に溢れた文章だと僕は思った。
“旧作愛”ではなく、“うる星愛”だと。

ただ旧作と比較したのはやっぱり悪手で、
一部のヒステリーを
喚起してしまったのではないだろうか。
そうしたい気持ちは痛いほどわかるけれども。

「住めば都/生ゴミ、海へ」を褒める


11/25に放送されたアニメ「うる星」、
プール妖怪の声をあてた蛙亭の中野さんは
まんま中野さんでしたねぇ。
でもまったく違和感がなくて、
好キャスティングだったと思いました。

まぁこれがサバンナの高橋さんであっても
おそらく違和感なかったのではないかと思いますが。

どうせ中野さんなら、
もうラムをイワクラさんがやっても
僕なりには楽しめたかもしれません。
脚本ももうコントにしていいです。
ポピテピピックノリで。
ポピテピピック見てなかったけど。

高橋留美子氏も怒らないんじゃないかなぁ。
お笑い好きらしいし。
知らんけど。


ええと、今回はアニメ令和「うる星」から
「住めば都/生ゴミ、海へ」を褒めます。


今回もまた、止め絵が活用されていました!
その1枚1枚にはなかなか手がこんだものもあって、

これなんか結構頑張って
描かれていたんじゃないでしょうか。
躍動感のある内容だし、
水飛沫という動体も入っているのに
なぜ動かさないのか不思議ではありますが。


あ プールの妖怪!
ラ まだいるっちゃ?
母 そうなの

B パートの
このへんの作画はどなたの絵なのでしょう。

最近のアニメ「ドラえもん」で見るような、
すごくいい感じのタッチだと思いました。
どこかで見たような気もするんですけど、
なんだったかなぁ…。


このあと物語は海水浴場で進められます。


妖 では行きましょうか
あ そうだな

ビーチパラソルを背にした二者のレイアウトが
立体的でとてもいい感じです。
振り向くプール妖怪の動きも
下から見た時の動きっぽくてすごく良かった。


妖 ここでいいですよ
あ じゃあ、俺行くからな

あたるの、どこか後ろめたさを感じつつも
そうするしかないしな、という気持ち、
しかしナーバスになるのも
どこかアホらしい、という複雑な感情が
ブルーの抜け感と余白の効果で
すごくいい感じだなと思いました。
神谷氏の台詞の雰囲気もマッチしていました。

空の青にはムラを残してあるんだけど、
それもまたここでは
フラットではない感情にマッチしていて
面白いなぁと思いました。

同じ構図はこの後サクラとつばめがやるんですが、
そっちではカメラのパンをしてしまっていて
イマイチだと思いましたが。


これでよかったんだ。幸せになってね

同じく青い空をバックに寂しげな少年。
ここもなかなか良かった。
少年の感情と関係なく
空は晴れてて入道雲はデカくて。

確認したら、
あたるやサクラ&つばめのカットと
背景の使い回しはしてなかったです。えらい。


ハハハ! ポチ~、こっちこっち!!


雨、やまないね…

や、いい絵ですねぇ。
令和のアニメシーンにおいては
このぐらいの絵でも動かせるんじゃないかと
思いますけれど。


えへっ、ずっと一緒だよ

あ~、やっぱり高橋留美子氏というよりも
椎名高志氏寄りな気がするけどなぁ。


とまぁ、こんなところが
今回のエピソードで僕がいいなと思った箇所です。


なんとなく、竜之介エピソードに向けての
海と空の描写のテストのような気も
してしまうんですけどね。〈おしまい〉

「お雪」のワンシーンを検証する


わりと不機嫌なのである。
さすがにこれを肯定するとファンの矜持が保てない。

個人的な好き嫌いの問題ではなくて、
いい悪いの問題だと思うから
理解してもらえるように説明したいと思う。


2022年11月17日放送「うる星やつら
いい日旅立ち/お雪/あたるの引退」より。




あ「なんで人の部屋に…」

そもそもここの異議申し立てがかなり穏便だ。

「理由があるなら聞くけど…」ぐらいの
テンションであり、そのせいで
この後おユキの色香に丸め込まれる男の情けなさ、
しょーもなさといった面白味が薄くなっている。
なぜそうしたのかわからない。

あるとすれば、
あたるは女性には語気を荒げないキャラにしよう、
ということかと思うが、
あたるは普段から、
さんざっぱらラムには怒鳴っている。

それにあたるは
穏やかな日常を願う普通の男子高校生であって、
迷惑を受けたり被害を被ったりすることを
本来嫌うタイプの人間なのだ。
そうでないと、彼が事件に巻き込まれる面白味が
薄れてしまう。
だからここでは
きちんと抗議させるべきだったのではないか。


また、あたるは
「なんで人の部屋に…」で話をやめている。
つまり会話のターンをおユキに渡しているのだが
そのことで、おユキがあたるの話に割り込んだと
いうニュアンスが消えてしまっている。



ユ「失礼、防寒服を脱ぎますから…」

(私の番ですね、では脱ぎますわ)
ということになってしまっているのだ。

本来なら、脈絡もなく繰り出した“脱衣”が
とんでもない破壊力で、
その前には男はまったく無力、というのが
男の情けなさを笑うギャグであり、
また“女の武器あるある”という笑いでも
あるはずなのである。

なぜわざわざ変えたのか。

 


あ「おぉ~っ!」

ここでのあたるの反応が早すぎる。
意表を突かれた表情が挿入されていないので
脱ぐのをわかっていたかのようである。

ここであたるが反応してしまったことで、
次のシーンの、おユキの決めポーズでの
あたるのテンション爆上がり、というニュアンスが
めちゃくちゃ削られてしまっている。

これは先ほどの、怒りのテンションが低いこととも
関係しているわけだが、
要するにあたるに余裕があり過ぎるのだ。
だからこんなことになってしまう。

ここら辺のギャグを薄味にしてまで
あたるを優しい男の子にしなくちゃ
ならなかったのか?

 


ユ「お話の続きをどうぞ?」
あ「はぁ…ですから…あの…」

なぜこの構図なのか。
原作ではあたると対峙するアングルだったが
なぜわざわざ変えたのか。

想像するに、おユキの肢体を
16:9のアスペクト比いっぱいに
したかったのでしょうな。

しかしいったい、誰目線なのか。
立っているしのぶか?
決めポーズだというのに、第三者目線過ぎる。
ここで一旦、臨場感がリセットされてしまう。

また、おユキがなぜここで座るかというと
ハナからあたるの話を聞く気はなく、
色気だけでもう片は付いているにもかかわらず
「さて、じっくりお話ししましょうか」と
男を手玉にとっている感を出すためなのだが、
なぜそれを“ただの動作”にしてしまっているのか。

 


あ「どんどん雪を捨ててください、構いませんから」
ユ「では、お茶をお持ちしますね」

一連の流れのオチのここでは、原作でのあたるの
“面と向かうと意外に女の肢体を直視できない”
というシャイな常識人というニュアンスがなくなり、
調子のいい女好き、ということになっているが
さすがにこれに関しては昭和クサいから
こういう改変でいいと思う。
まぁ昭和の話のはずだったけどね。



言いたいことは以上です。
ちょっと溜まっていたので
1回、書いてみました。
書かなければ、なかったことになるからね。
〈おしまい〉

昔のサンデーグラフィックを出してきました


アニメ令和「うる星やつら」のことで
ちょっと知りたいことがあったので
TVアニメ『うる星やつら
公式スターティングガイド
を買おうかと思ったのだけれど
1,800円もするんですねぇ。

昭和57年(1982年)発行の
サンデーグラフィックうる星(無印)690円とは
隔世の感があります。

学生だったその頃に比べれば
自由に使えるお金は増えましたが、例えば
当時のサンデーコミックス「うる星」340円と
サンデーコミックス「MAO」550円との
上昇率の違いに比べると
なかなかですなぁ、と思ってしまいます。


思えば昔のサンデーグラフィックには
たいへん楽しませてもらいました。
毎度毎度、高橋留美子氏の書きおろしが付いてたし、
留美ックの小ネタを収拾するにも
欠かせない存在でした。

これは(無印)のグラビアです。
アイメイク&口紅がしっかり施された、
ちょっと傲慢な表情が魅力な、青い目のラム。

表紙(上記)でも化粧が施されているし、
そりゃ高田明美氏が口紅付けるのも無理はない。
まぁなんにつけバランスというものは必要ですが。

ラムのデザイン案なんかも載ってたのは
嬉しかったなぁ。

サンデーグラフィック「うる星やつら」の
(2)、(3)では、
「びびっと」に載っていた漫画が転載されていて、
これも嬉しかったものです。

まだ「るーみっく わーるど」が刊行されておらず、
「うる星」「めぞん」の他には
「ダストスパート!!」の単行本ぐらいしか
入手できなかったですし。


しかしこうして、
昔の「サンデーグラフィック」をめくっていると、
いろいろ思い返されます。

アニメ昭和「うる星」のスタンスって、

こうでもあったんですよね。
これは紛れもない事実。
テンが早期に出てきたり
やたらキンタローだったりしたのは
この辺の兼ね合いもあったのではないでしょうか。


(モザイクかけてます)
今でこそ「ラムのラブソング」は
名曲として親しまれ、
歌詞や楽譜を探すのも簡単ですが
当時はそうではありませんでした。
だからここでコードがわかった時は
喜んだものでした。


昔はおおらかだった、とはよく言われますが
FZサークルの連絡先が
実住所と本名で載ってたりしますねぇ。
いやー恐ろしい。
もう何十年も前のことですから
同じ場所に住み続けている人は
少ないかもしれませんが、
なかなかになかなかです。


まぁそんなわけで、
昔はサンデーグラフィックの新刊が出るのを
心待ちにしていたものですが、
情けないことに、完結篇まで完走することなく
買うのをやめてしまいました。
ちょっと惜しかったかなぁ。〈おしまい〉

山下原画が最高な昭和うる星やつら「怪談!柳のオジジ!!」レビュー


今週はテレビアニメ作品の評価の際の
個々の配点のことについてブログを書いたのだが
それを踏まえたうえでもう一つ、
アニメ 昭和「うる星」から
「怪談!柳のオジジ!!」をレビューしよう。


1983年(昭和58年)6月29日に
放送されたこの作品は
原作「柳精翁の恐怖!?」(13-4)に基づく
アニメタイトルだ。

友引高校の日常回であるこのエピソードは
30分に構成し直すにあたって
かなり改変が加えられている。
だがしかし、その改変がめちゃくちゃリッチなので
「ただでいいものを見せてもらった」感がすごい。

文句のつけようがないと思うけれど
あるとすれば山下原画に対する好き嫌いだろうか。
しかしそれを言い出すと
金田伊功氏の否定になってしまうんだなこれが。

日常コメディに
金田アクションを持ち込むことの
是非はあるかもしれないが、
逆にいえばよくぞ日常コメディに持ち込んでくれた、
ということでもある。

そういえばそういうのは安永航一郎氏の
県立地球防衛軍」でもやっていて、
そうそうついでだから言っておくが
高橋留美子関係の論評に
アオイホノオ」絡みで
島本和彦氏かく語りき、みたいに
書かれていることがあるけど
あれちょっとどうかと思うんだよなー。
当時の島本和彦氏は
あんまりこっち方面という感じしなかったしなー。


話を戻して。

「怪談!柳のオジジ!!」のいいところに、
ラムが完全に脇役となっている点がある。

“美少女ラム”の要素が少ないことで
このエピソードに価値がないと感じる人も
いるだろうと思うけれども、
そこについてはほぼ原作通りなわけであり、
これもまた「うる星」なのだ。

そういう観点でいうと、
「怪談!柳のオジジ!!」は
たいへんに“ピュア”な作品だと思う。


では順に見ていこう。

2-4の教室を外から覗き込む構図。
動きこそしていないが
カメラがパンしていくので
見えているだけで19名の姿が
凝ったアングルで描かれている。
仕事としてとても誠実だ。

「ワイ談!」とヤジを飛ばすも
温泉マークにビビるあたる。
この辺は、
原作のふてぶてしい感じの方がよかったね。
このエピソードでは
最後のほうまで温泉との絡みが続くし。

温泉マークを擁護し、クラスメイトを諭す面堂。
原作では着席したまま
皮肉めいた感じで温泉を促していたが、
テレビ映えを考えたのか
アニメでは“クサい優等生”風に演技させている。
原作の大人びたギャグが
子供っぽくなってしまったようで残念だが
ひょっとして好意的に考えれば
エピソード後半の、
ある面ではクソ真面目で融通の利かない面堂、
というキャラクターをここでも印象付けている、
のかもしれない。

柳を傷つけた学生は
原作ではナイフを巻き上げられただけだったが
アニメでは呪い殺されてしまった。
なんかえらく変えたな、とも思えるが
よく考えたら温泉マークの作り話であるし、
怖がらせる怪談のオチとしては
死んでしまうぐらいのほうが妥当な気もする。

むぅ、ええなー。

あたるとメガネの何気ないじゃれ合い。
千葉繁氏の演技もすごくよかったなぁ。

この構図は面白いなぁ!
当事者の柳精翁とあたるメガネが小さく、
やや傍観者のラムが大きく写っていて、
それらをさらに電信柱の影から見ている。
ヤバいところに居合わせてしまった、
という感じがすごくする演出だ。
柳精翁が動き出すまでの間も
呆気にとられた感じがすごく伝わってきて
とてもいい。

ここもええなぁ!
こんなリッチな絵をテレビシリーズで見れて
いいのだろうか。

この面堂のポージング!
面堂の心の声が聞こえてくるようだ。
まさに、演出がこもった作画といえるだろう。

「おい見ろ!め、面堂が追い付けんぞ!」
というメガネにあたるが
「面堂なんかどうでもいい!」と斬って捨てて、
ほんとにどうでもよさそうに意に介しないのは
アニメオリジナルなんだけど、
それぞれの事情が交錯しあう作劇といった感じで
とても面白い肉付けだと思う。

滞空時間の長いこのアクションも
当時どれだけワクワクしたことか。
コナンとかカリ城でしか味わえなかった動きが
身近な日常の舞台で展開されるというだけで
すごく興奮したものだ。

山下原画はモブも情報量が多くていいんだよな。

「くそぉ、逃げ足の速いジジイだ」といって
周囲を見渡す面堂。その見渡す動きが
ブルンブルンと歌舞伎のように動いて
たったそれだけのシーンなのに
魂がこもっているのがわかる。

Bパートは温泉マークの
宿直・見回りのシーンから始まるのだが、
およそ5分に渡って
温泉のアクションが披露される。
ここの動画のリッチさときたらもう絶品だ!
しかも描かれているのは
ラムじゃなくておっさんの温泉だぜ!?

映画「ビューティフル・ドリーマー」の
深夜の学校探索のシーンに繋がる作劇であり、
令和の神作画と言われるアニメ群にも
引けを取らないと間違いなくいえるだろう。

いやでもこれほんとに、
池水通洋氏も最高なんだよな。
柳精翁の富田耕生氏もいいんだけど
池水氏が良すぎて
食ってしまった感がある。

この、びっくりして思わずガイコツが
飛び出しちゃうところなんて、
肉眼ではほとんど見えないんだよな。
惜しみもなくすごすぎるだろホント。

ここからの温泉の疾走の背景で流れるのは
「オンリー・ユー」のサントラのM-3だ。
ありていに言って最高である。


面堂が夜の学校に到着してからは
作画もいつも通りに。

あたるがシャベルで面堂を殴り、
温泉が刀の鞘であたるとメガネを殴る。
バイオレンスじゃ…。

あたるとメガネは宿直室の備品の梅酒を
盗み呑む。原作では清酒だったが、
梅酒に変わったことで

「清めの酒しぶき」もちょっと無理が。
同じギャグを繰り返す“天丼”の
タイミングは良かったけれど。

「今日(こんにち)たった今から
 面堂家の長男ではなくただの人殺しだ…!」
といきまく面堂。
令和の世に聞くと結構刺激的な台詞である。

ラストシーンもほぼ原作通りといっていい。
山下氏担当パート以外は
わりと普通の出来上がりではあるが、
イメージを大きく逸脱することのない
堅実な出来といえるだろう。


温泉の見回りのシーンは
確かに改変と言えるんだけど、
決してアニメの自分勝手な改変ではなく
エンタテイメントの提供であり
また新しい映像表現の提示であり、
山下氏の功績というだけではなく
それを許した・推進した昭和「うる星」が
まさに“神がかった番組”であったことの
証明だと思う。

昭和の時代に
アニメ「うる星」が何をやってのけたか、
「怪談!柳のオジジ!!」は
それがよくわかるエピソードだったのではないかと
僕は思うのだがいかがだろうか。〈おしまい〉

作品への配点


いやあ、Twitter ヤバいですね。

経営方針もさることながら
こっち界隈の話では
劇場版認証公式に大量に釣られていたのも
なかなかに興味深かった。
エイプリルフールにいろんな会社が仕掛ける
ジョーク記事や虚構より
だいぶんレベル低い記事でしたが。


先日、とある Tweet がバズっていました。


その 2 も含めると、個人的にはおおむね同意です。
大好きな動画工房が入っていないのは残念ですが
上記と比べると“美麗”というくくりでは
ない気がするし。


最近、日課のように
アニメ令和「うる星」の感想を
漁っているのですが、
「作画」という言葉の使い方が
投稿者によってまちまちなのではないかと
感じています。

ビデオを一時停止にして
その静止した絵について語っている人と、
動く“アニメーション”という意味で
使っている人がいるっぽい。

だからなのか、話が噛み合ってない。

制作作業としては
どちらも“作画(原画)”になるのかも
しれないですけど、
絵が整っていることと、動くこととは
別ですから。


とはいえ人の判断基準はさまざまで、
ですので戯れに
僕の、アニメに対する評価配点表を
作ってみました。


キャラデザや背景、BGM・SE は
番組開始時に決まっているものですので
配点に入っていません。


僕の場合、アニメーションの比率が
結構高いんですよね。
見惚れるような動きを見せられたら
それだけでワクワクしてしまう。


令和「うる星」には点数を記入しませんでしたが
そもそも人によって、
“配点”が違うと思うんですよね。

配点が違う同士が議論しても
なかなかうまくいかないのではと思います。


また、それぞれの項目で配点を変えているから
“気に入らないところがあるけど見る”ということが
発生するのだと思うのです。

ちなみに上の表でいうと
おおむね半分、点数が取れていれば
視聴を継続する感じです
DIY はヤバいところですが
ジョブ子が出てきてぐっと興味が出てきているので
切らずに見ています。
ジョブ子が主役のせるふではなく
ぷりんと同居してるのが新鮮に感じてます)。

他の方の“配点”はどんな感じなんでしょうかね。


あと最近、個人的にしみじみ感じているのは
高橋留美子作品における
“ファンシー”を重要視している層が
相当数いらっしゃることです。

丸っこい作画、まぁどちらかというと
らんま期がそうなんでしょうけれど
うる星後期とか、キツネとかそのほか、
つまりなんか丸っこくてかわいいやつ。
ストーリーについても同じく、
なんかかわいいのがかわいいことするやつ。


そういう嗜好を、否定するものでは全くありません。

しかし改めて目にするとそりゃ、
SFっぽさ、筒井っぽさをよしとする層とは
相容れないわな、と思います。
見ているところが違うんですもん。


そりゃ、黒目が小さいのが好き派と
黒目が大きいのが好き派が発生しますわ。
そのどっちもが“原作派”だというね。


ファン層の広さという部分ではつくづく
高橋留美子作品の懐の広さを思い知らされます。
きっと編集さんも有能なんでしょう。


逆に言えば、だからこそ原作にすら
自分に合わない部分もあるわけで
みんな“いいとこ取り”して
楽しんでいるんだと思うんですよ。

そういうことなんじゃないでしょうか。
〈おしまい〉

批評と批判


年をとったせいか争いごとがしんどい。

もう結構前から、自分の主義主張を
他人に共感してもらうことに
あまり価値を置かなくなってきた。
まぁこれは自分の生活に支障がない限りにおいて、
ではあるけれど。

自分が人からどう見えるか、ということに
興味がなくなってきたせいもあると思う。
子供が育つにつれて自分の優先順位は下降し、
自分を(内面外面共に)飾ることに
振り分けるリソースが
少なくなってきたことも大いに関係あるだろう。

説明は尽くすけれども
理解してもらったうえで、
同調されなくても別に構わない。


ただ、道理そっちのけの議論は
自分でもしたくないし、他者のそれを
はたから見ているだけでもしんどい。


昔からの、ゲハ板の抗争のようなノリが
どうにも苦手である。
相手を屈服させることが
主目的になっているようなやりとりは
見ていて気持ちのいいものではない。

優劣を競いたい気持ちは
特に若年層などにおいてはわからんでもないが
勝ったから勝者側が満点になるということはないし
負けたから弱者側が零点になることもない。
60点vs59点、という勝負もあるだろうし
両者ともに合格ラインを越えた61点vs62点という
勝負もあるだろう。
一般的に、長所があれば短所もあるのが普通だ。

そもそも優劣をつけたからどうというものでもない。
相手を貶めても自分には加算されないのだ。


web上の一部の界隈では
「覇権」という言葉が取りざたされているが
本来その覇権という評価をどう利用するかといえば
広く話題になりそうなものに乗り遅れずに
アクセスしたいときのための指標とするのが
有意な使い方といえるだろう。

かといって、覇権でないことが負けではないし
他人との共有にこだわらず
自分の好みに殉ずるのであれば
他人の評価ではなく
自分の評価を絶対基準にするべきである。

それが世間でクソ呼ばわりされていようが
自分が好きならそれでいいと思う。

良し悪しと好き嫌いは別のことなのだから。

それを身に纏っている自分を見てほしい、ではなく
例え無人島に独りぼっちの状況であっても
自分はこれが好きなのだ、ということが
心の拠り所になるのではないだろうか。

そしてその時、
やっぱり“満点”なんかないんだと思う。
しかしそこにある欠点すらも
つきあっていくべき“連れ合い”なのだ。
欠点に対して盲目になるのはいいことではない。

そう、自分の推しを持ち上げるために
欠点を認めないのはよくない。

なぜというに、自らの審美眼の正確性を
毀損することになるからだ。
正確な物差しを持っているからこそ
褒める評価に価値があるし
批判にも価値が出る。

ダメなものはダメと言わなくちゃならない。
それは愛情の有り無しではない。

また、他者からダメと言われたら
素直に耳を傾けてそれについて考え、
本当にダメだったら、
「確かにダメだった」と認めたい。

ダメなところはこれこれこういうふうにあるけれど、
他にいい部分がこれだけあって
総合的に自分は“好き”なのだ。
そういう気持ちには、誰も文句をつけられない。


ただ逆もまた然りであって
“嫌い”という気持ちにも他者は関与できなくて。

そこに誤解がない限り、
“そういう人もいる”と考えるしかないだろう。
そのことで傷付く必要はないし
傷付かないメンタルを持つべきなんだと思う。




あとねぇ、
“批評する楽しみ”ってのはあるよねぇ。
これははっきり“年寄りムーブ”だけれどもさ。
自意識過剰、承認欲求、
そういわれても仕方がないが超楽しい。
ものごとを、批評のオカズにする、という
楽しみ方は歴然としてあるので、
「嫌なら見るな」というのはちょっとね。

太古の昔にも
「今の若者は」という概念はあったらしいので
これはもう根絶することは無理でしょう。

ミュートすることもできるだろうだけど
欲しい情報とトレードオフになっちゃうし
まぁなかなかね。
みんななんとか折り合いつけているわけだし
それが社会というやつなのかもね。〈おしまい〉