ぼちぼちと更新していければ

(毎週土曜日中の更新を目指しています)









ラムのフィギュアの話(2023年8月31日更新しました)

ホビージャパン様の、誌面画像使用についての
 注意勧告に基づき、画像を変更しました。
 モザイクをかけて、もうほとんど心の目で見ないと
 判別できないかと思いますが
 足りないようでしたら削除させていただきますので
 ご連絡ください。https://twitter.com/rumicold
 (2023年8月31日)



僕はお人形趣味は(あまり)ないのだが、
漫画・アニメの立体化されたものには
結構興味があって、
だからふたば☆ちゃんねるの模型裏板なんかも
ちょくちょく見ていた。

魔改造」という言葉の意味も知っていたつもりで、
件のNHKの「魔改造の夜」という番組名を
新聞のテレビ欄で見た時にも、
最初は驚き、番組内容を見て
その用法は違うだろ、と
たしなめたいような気分になったものだった。

同じような方は世間にも多数いらしたようで、

internet.watch.impress.co.jp


と、記事に取り上げられるぐらいの
騒ぎにはなったらしい。

記事中にもあるが、wikipediaにも
「魔改造」のページはあって、
これは僕も初めて見たのだけれど、
「初期の魔改造」の段落で、1980年代に
うる星やつら」のラムのフィギュアが
魔改造されていたと紹介されている。

発売時期を調べるのは面倒なのでやめておくが、
ラムの立体物としては、
たぶんバンダイのプラモデルが
最初なんじゃないかと思う。

(もしかしたらぐねぐね人形のほうが早いかも)
(プラモデルと同時期ぐらいに、
 セイラ・マスのプラモデルをベースにして
 ラムを作ったのはいい思い出。
 パテで作った後ろ髪が重くて立てなかった)

バンダイのプラモデルは
高田明美氏の初期設定のラムを
変に解釈してしまったというか、
原型師さんには悪いけどあまり可愛くなくて、
顔だけならパテ埋めして何とかしたかもしれないけど
妙に頭でっかちだったので
どうにも製作意欲がわかず、
買ったはいいけれど結局手も付けなかった。

当時のホビージャパンでは、
そのラムのプラモの改造記事もあった
(1982年12月号)。
スカート内部に手を入れたりと、
当時の出版界の倫理規定内では
がんばっていたんじゃないかと思う。

ブルマとかバニーとかいろいろと全開である




むろん、当時ひん剥いたモデラーの方も
いらっしゃっただろう。
表にはあまり出なかったけれど。

ラムのフィギュアといえば
ツクダホビーのジャンボフィギュアの話も外せない。
僕の場合は当時まだエアブラシを持っておらず、
塗装道具を買い揃えたら作ろう、と思っていたのだが
そうして長い年月が経つあいだに
ジャンボフィギュアの素材ゆえの悪評を聞きつけ、
いっそうというか、
手をつけることはなくなってしまった。

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造形自体はとても素晴らしかったので余計に残念だ


ガレージキットも含めると
相当数のラムのフィギュアがこの世に出た。
稼働するものもあって、
figmaのラムは付属する怒り顔が原作寄りで
出色の出来だった。

バンダイは今、Figure-riseシリーズという
とんでもないことをやっていて、
このテクノロジーがあれば……!!!と
思わないでもない。
ただラムというキャラの人気は、
おっさんのノスタルジー頼みなところがあって
デザインとしては情報量が少なすぎて、
現代に通用するものではないので、
商品化はあまり現実的ではないだろう。
まことに残念なことである。

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個人的にラムフィギュアNo.1はこれ。
原作準拠といっていい

ラムの目の作画



originalnews.nico

 

この記事は2018年1月の記事なのだが、
この2020年6月に再度掘り出されて、
一部で話題になったらしい。

2ページ目の終盤で、
ラムに少し言及されているのだが、
「白目がいっぱいある」というのがその論旨だ。
白目がいっぱいあることが、ラムを
情念的でワイルドで、
意思がわかりやすいキャラにしている、
というのが山田氏の主張である。

うる星やつら」において、作風的に
ラムの黒目がずいぶん小さくなった時期があって、
コミックスでいうと27巻辺りがそうだと思うのだが、
パラパラと眺めてみると、
この頃の作画にはぽつぽつと
「立体的」な絵があることに気が付く。
例えばPART-10の「水着ラプソディー」の
最初のコマがそうなのだが、
この絵のラムの配置、またラムのポージングは
現代のHD/ハイビジョン対応のアニメのような、
じっくり見るのにも対応する、とてもいい絵だと思う
(運動靴が実にフェティッシュだ)。

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あえてスキャンせずに簡単な撮影としているので、 できればご自身で読み返してみてほしい

小道具や造形、カオスな感じで
SFっぽさを醸し出していた
うる星やつら」初期と比べると、
こういった作画の妙で、
ワクワクさせるような演出ができるよう、
工夫なさっていたのではないか、と思う。

立体的な絵を創造していく中で
キャラの視線の向きが
その絵の重要な要素となることを踏まえ、
より視線がわかりやすくなるような
「白目がいっぱいある」絵と
なっていったのではないだろうか。

27巻のエピソードが少年サンデーに掲載されたのが
昭和60年頃である。
アニメ版は翌昭和61年までやっている。

山田玲司氏がデビューしたのが1986年(昭和61年)
とのことで、時期的にはこの頃の「うる星」が
印象に強いのではないかなぁ、と思うのだが
どうだろうか。

ちなみに、コミックス1巻も読み返してみたのだが
ラムの白目の多さ、というのは特に感じなかった。
もちろん、ギャグ漫画の流れを汲む
そういった作画はあるが、ラムのキャラクターを
形作るようなそれは認められなかった。
ラムが宇宙人であることから、
爬虫類の目のような、すぐに異種であると認識できる
黒目の小ささを描いているかと思ったが
あまりそういうことはなかった。

だからあまり「ラムというキャラだから」というのは
関係ないような気がする。

キャラクターに対する愛情や愛着



p-shirokuma.hatenadiary.com

 

上記は先週聞こえてきた、
エヴァンゲリオンという別のジャンルでの
キャラ愛に関するテキストだ。
別ジャンルではあるが、
同じような境遇を過ごしてきた者として
たいへんに共感をもって読んだ。

うる星やつら」のラムというキャラクターは
もちろん二次元のキャラクターなのだが
僕の脳内には実体がちゃんとある。
節度をもって接しているつもりだが、
触れた時の肌感だって知っている。

ラムが歳をとっていったかというと
僕の中では歳はとっていない。
だが僕の年齢と比例して、
どんどん分別がついていった。

ラムは昔「忘れないで」と言ったし、
僕も「忘れちゃいけない」と思ったのだから
忘れないでいるべきで、
だからそれは優先順位は下がったものの、
僕の人生においては永遠だ。

さて、「うる星やつら」という作品は
爆発的な盛り上がりののちに
いったんブームを終えたが、
やがて古典となったことで
ラムが神格化・概念と化し、
若い人たちにも改めて受け入れられた。

だが、今の若い人が
疑似恋愛対象としてラムを見れるかといったら
ちょっと難しいんじゃないかと思う。

「俺の『好き』と、ニワカの『好き』は違う」
などというと老害待ったなしだが、
実際問題、やっぱり時代の空気っていうのはあって、
リアルタイムに感じていた触り心地は
後からいくら追いかけても
手に入らないものだからだ。

うる星やつら」が
アニメでブレイクしたのは言うまでもないが、
アニメ版のほうが時代背景の影響は顕著で、
ヤマト、999、ガンダム辺りを教養課程として
こなしてから「うる星」に入った、という
受け手側のスタンスは今から思えば不可思議だし、
ポップカルチャーというか
テクノの出はじめというか、
そういう中でのアニメ「うる星」は
アバンギャルドな感じだったし、
当時の水曜7:30からテレビの前で正座して見るのと、
現代においてDVD(BD)を
えっちらおっちら見るのとでは
気迫もまったく違うし、
新しいものを見ているのか古いものを見ているのか、
そこからしてまるで違うわけだから、
同じように感じられるわけがない。

まぁだからといって、
我々リアルタイム世代が至高なのだとか、
そういうことでは全くないのだが。

どちらかというと我々は
もう何十年も失恋し続けていて、
その失恋のほろ苦さを大事に大事にしていて、
その対象が、古いデザインのキャラクターだ、
ということなのだ。

同じような体験を、今度は若い世代が
2020年のデザインの
キャラクターに対して行うのだろう。
輪廻のように繰り返されるそれは、
生命のサイクルと同様で、
新しい古いはあっても、良い悪いはない。


ちなみに僕は
綾波のほうが好きだけどアスカも好きで、
でもアスカに対しては
「弟とキスしているような感じ」
になってしまうのだ。
自己投影とか自己愛とか、
そういうやつなのだろうか。

筒井康隆作品のように楽しむ「ふうふ」

しばらくの間、「1ポンド」を題材に
辛辣なことをいろいろ書いてしまったので
今回は作品を褒めたい。
褒めたい欲が湧き上がっている。

ただコロナ禍の緊急事態宣言が明けたり
東京アラートが発動しつつも
ステップ3に移行したりで
なんだかとても時間がとれなくて、
ぼんやりと思いを巡らせる時間が足りない。

こういう状態で、
すごく褒めたい作品を中途半端に褒めると
やり残した感で後悔してしまいそうで、
何かもうちょっと軽い感じで取り上げられる
ちょうどいい題材はないものか。

「1ポンド」について書いた中で
「狂気」と表現した部分があったが、
それについて考えている時にしばしば
筒井康隆先生の作品が頭を駆け回った。

高橋留美子氏もファンだという
筒井康隆先生の作品のうちいくつかは、
僕の中では、初期の高橋留美子氏の絵柄で
再現される。

その筆頭が、「混同夢」だ。
サラリーマンのドタバタを描いた作品だが、
この作品を、高橋留美子氏の
「ふうふ」のキャラで脳内再生すると
再現率が(僕にとっては)ものすごく高くて、
両氏のファンの僕的には「しふくぅぅぅぅ」である。

というかもう「ふうふ」が既に「混同夢」の
トリビュートと言ってもいい。
セリフ回し、擬音、スピード線、
全てが「ああいう感じ」で最高だ。

「筒井漫画涜本」に、
なんで高橋留美子氏は参加してくれなかったのか。
もっとも、1995年の刊行では
高橋留美子氏の絵柄も「らんま」後期となっており、
あの頃の筒井先生のごちゃまぜ感とは
ちょっと違った風になっていただろう。

「ふうふ」は1980年の、
「めぞん」が始まる前の作品だが、
世俗的なシーンが多いこともあってか
松本零士氏の絵の影響を感じる部分が多々ある。
高橋留美子本」の中で高橋留美子氏は
松本零士氏の影響を誰も指摘しないと
言っていたが、例えば
「行きませう。」のコマの
吉行誠の腕の逆反りなんかは
そうなんじゃないかなー、と思う。

まぁとにかく「ふうふ」は最高だ。
一応オチ的には夫婦愛のようなもので
〆られてはいるけれど、
基本的には狂気の垣間見える不条理ギャグであり、
高橋留美子氏の作画が
それらを最高のものにしている。

「ふうふ」については
いつかもっとねちねちと書いてみたい。

「1ポンドの福音」つらつら

うる星やつら」最終話は
少年サンデー1987年8号に掲載。
めぞん一刻」最終話は
ビッグコミックスピリッツ1987年19号に掲載。
1ポンドの福音」の初掲載は
ヤングサンデー1987年9号。
らんま1/2」少年サンデー1987年36号から
1996年12号まで連載。
犬夜叉」少年サンデー1996年50号から
2008年29号まで連載(特別編除く)。
1ポンドの福音」最終話は
ヤングサンデー2007年3/4合併号に掲載。

 

この作品における畑中耕作という存在は、
ナンセンスギャグ世界のハチャメチャキャラを、
リアル寄りの世界に連れてきたらどうなるか?
そんな実験みたいなものにも感じられた。
多くの制約の中、オチに向けてどう逃げるのか。
スポ根へのアンチテーゼのような作品が、
根性無しを装って、
しかし結局は根性論で勝利するという、
漫画論的に読むとなかなかに面白い作品だと思う。

 

シスターアンジェラは当初
修道女のいでたちで通していて、
それはつまり修道女という概念の、
美女ではあるが個性のない、
たいへん純粋な「役」だけの存在だった。
これも結構面白い試みだと思う。
構成としてはバラエティコントとか、
即興劇のようといってもいい。
その後、水着回を経て
シスターアンジェラは麻利絵となっていくのだが
その頃から彼女のいでたちは、
ただの修道女のコスプレとなっていく。

 

耕作の、女なら誰でもいいというような姿勢が
明るみとなるごとに、シスターアンジェラの
ボクシング勝利への影響力は弱まっていく。
しかしそれでは耕作を勝たせられなくなるので
耕作は幼児退行化させられていく。
「うる星」や「らんま」で
慣れ親しんだテンポになって
話のキレはよくなるのだが、
何でもありになるので陳腐化している気もする。


耕作だけでなく、
ストーリーの構成も幼稚になっていく。
聞き違いやニュアンスの違いで
誤解が生じる、というのは
他の作品でもよく使われているやり方だが
その元となる台詞の組み立てが
無理筋過ぎたりするように思える。
また、キャラのアホさ加減に
責任をおっかぶせたストーリーも
少年誌レベルならともかく、
大人の世界を描いていてこれは…と
少し辟易してしまう。


しかしなんというか、
男のステータス変化、が
やたらキーになっていると
思うのだけれどどうだろうか。
男の甲斐性に女がなびく、という原理が
「1ポンド」でもやはり強く描かれていて、
つくづくるーみっくわーるど
(貧乏人が恵まれる、から一周回って)
貧乏人が恵まれない世界だなぁ、と思う。

年頃の男性としての畑中耕作

1ポンドの福音」は
読者をふるいにかける漫画である。
僕などは漫画好きの末端でしかないが、
しかし今まで培ってきた固定観念のせいで、
「1ポンド」を読むのはたいへん努力を要する。


ある意味で、「1ポンド」は
今までにない新しいことを
やっているようにも思える。
超大型連載の端境期に生まれた作品であるからだが、
しかし最初は読み切り予定だったはずなので
読み切りと連載の方法論の違いが
この作品に妙な狂いを
生じさせているのかもしれない。


「狂い」というと批判しているようだが
ギャグマンガにおいては必ずしもそうではなく
荒唐無稽、ナンセンス、アンバランス、
破壊、破綻、と
有意に働くことももちろんあるので
時には誉め言葉ともいえよう。


では「1ポンド」においてその「狂い」が
プラスに働いているかどうか。


「1ポンド」の登場人物の関係は、
畑中耕作が、ジム関係者とやり取りしながら
シスターアンジェラとの恋を
成就させようとするのだが、
教会関係者や対戦相手による障害がたびたび入る、
ざっくり言えばそんな感じだろう。


シスターアンジェラも対戦相手も
そこそこユニークで、
それはいくつものエピソードを構成していくのには
たいへん役立ってはいるのだが、
キャラクターのパワーとしては
畑中耕作がぶっちぎり過ぎていて、
他のキャラの付け入る隙がない。


これは、「うる星やつら」終了後の作品として
実に興味深い。


本来ボーイミーツガールな話であった「うる星」が
相当な長編としての存在を持続するため
群像劇となっていき、
しかし最終的にはやはり
ボーイミーツガールに回帰した、
そのことにも端的に顕れている、
「男の子がいろいろな事象に遭遇していくおとぎ話」
のような形態は
高橋留美子作品の根幹だと僕は思うのだが、
1ポンドの福音」ではそれを再確認し、
「男の子」が「主役」の物語を
作ろうとしたのではないか。


同時期に生まれる「らんま1/2」が
男女差を強調することで
男の子の男の子らしさを表現していることも
合わせて考えるとなかなかに感慨深い。


さて、そんな「男の子のお話」として
作られようとした「1ポンド」。
漫画で重要なのはキャラクターだと
高橋留美子氏はよく語られていたが、
では「1ポンド」の主役の畑中耕作というキャラは、
いったいぜんたいどういうキャラなのか。


・食べることに異常な執着心がある。
・ボクシングに特殊な才能がある。
・シスターアンジェラのことが好き。


wikipediaのキャラ紹介にも
だいたいそんなことが載っている。
だが僕からいわせるともっと強烈な特徴がある。
それは


・女性全般を欲望対象とすることに躊躇しない


ことである。


るーみっくキャラで女好きといえばまず第一に
諸星あたるが挙げられるだろう。
次点で面堂と三鷹あたりだろうか。
だが諸星あたると面堂は、
所詮はギャグマンガ中で
報復の平手打ちを受けるための
女好きというキャラを演じているだけに過ぎず、
三鷹においては女好きでさえなく、紳士であり、
女性方面に「いい顔をしている」だけである。


だが畑中耕作はちょっと違う。
外出先でたまたま会った知人女性に
同意のないキスをしたり、
しかもその悪行をまったく意に介さなかったり、
想いを馳せる女性がいながら
水着姿の女性をナンパしたり、
女性に交際を承諾させるために
ワンボックスバンで拉致誘拐したり、
2020年の感覚でいえば完全に犯罪者だが、
1990年ぐらいの意識をもって見てみても
やはりどうにも感情移入できない。


彼にとって女性と付き合うというのが
相手のパーソナリティーと接していくことではなく
「彼女を得る」=「女を得る」ことであるのが、
19歳の男子なんてどうせヤリたい盛りだろう、という
制作サイドの変な手回しによるものに感じて、
中高年になった僕には
ちょっと受け入れることができないのだ。


自分が中高年になったから?
ほんとはそうではないと思っている。


畑中耕作というキャラが
変質者のような女好きでありながら、
物語が耕作とシスターアンジェラの
ラブストーリーの体を装っているのが
理解できないのである。
「わっかんねえなー」ではなく、
「狂ってる」と思う。


その狂いっぷりが、でも実はそれこそが
めくるめくジェットコースタードラマだと
いうのであれば
僕が、ふるいにかけられて
残らなかったということなのだ。


畑中耕作についてもう少し。


彼が食欲旺盛すぎて
しばしば減量に失敗することなどは、
実はささいなことでしかない。
しばしば、ちゃんと減量を済ませて
成果も出しているのだから。


つまり彼の食欲という特徴は、
ストーリーを左右するほどの言い訳にはならない。


そのうえでいえば、
彼のように中途半端なやり方をしている人間が、
スポーツで勝ってしまってはいけないのだ、本来は。


しかし「1ポンド」はスポ根ではなくギャグ漫画だ。


…そうなのである。
そこにスポ根の読み方を持ってきてはいけない。


たしかにそうなのだが、
では畑中が世界チャンピオンになるのもアリなのか?


対戦相手が常に
なにがしかの副業をやっている者ばかりで、
ボクシング一筋に打ち込んできた者が
(後半)現れないのは
何らかの不都合を見せないためではないのか?


僕は、畑中耕作のボクサーという部分も
破綻している、狂っていると思うのだ。


「狂っている」のを眺めるのは面白い。
だが、狂う尺度が違っているとどうにも楽しめない。
そこがふるいであり、フィルターとなっている。


1ポンドの福音」は、
狂うことを目標とした作品かもしれない。
いろいろな端境期にあった作品だけに、
制作背景を思うとたいへんに興味深い。
人を選ぶ漫画であることは確かだし、
ストーリーが破綻している、で
切ってしまうことは簡単だが、
死ぬ前に一度ぐらいは読み直してみてほしい、
そんな漫画である。

「1ポンドの福音」は大人向けだったか

1ポンドの福音」は、
このブログで題材にすべきかどうか
ちょっと悩む作品である。
うる星やつら」の連載終了の時期から始まって、
らんま1/2」を駆け抜け、
犬夜叉」の終盤の頃まで続いた作品であり、
始めと終わりとでは作品の雰囲気が全く違う。


特に、「小羊の未来図(4巻)」から
「小羊の約束(4巻)」においては
一気に5年の月日が流れており、
別人が描いたかのような変化がある。


とりあえずは序章の辺りから始めてみよう。


この作品は当初は
読み切りの予定で始まったらしいが、
第1話、第2話を見ると確かに
増刊サンデーの読み切りの系譜というか、
高橋留美子劇場の系譜というか、
トンデモな、
それでいてどこか庶民的な一篇となっている。


主人公の畑中耕作がストーリーを作っていくが、
ではシスターアンジェラが
主演女優かというとそうでもない。
「勝手なやつら」からしばしば見られるように、
ヒロインは助演に徹していて、
主役のストーリーのサポートをしている。


助演といったのは、
シスターアンジェラのキャラが弱いからだ。
そもそも修道女という設定が
ほとんど活かされていない。


ただそれはそれでいいのだ。
耕作のストーリーを描くにあたって、
彼女そのものが舞台の一部であり、
修道女という概念として
シンプル・簡単であったほうが
耕作の動きに読者を集中させやすい。
少なくとも、読み切りにおいては。


さて畑中耕作だが、
食べることに異常な執着を示す、というのは
諸星あたるの女好きと同じような設定だ。
あたるの女好きがラムとの鬼ごっこ
障壁となっているように、耕作においては
食欲がボクシングの妨げになっている。


だが必ずしも似て見えないのは、
あたるの存在意義がスチャラカであることであり、
その見地からいえば女好きという特徴が
プラスに働きこそすれ
何かを損なうことはないのに対し、
耕作の食欲のほうは、大げさにすればするほど
ボクシングへの情熱の説得力を失うところである。
この、食欲と減量という部分のバランスが、
1ポンドの福音」においては
ギリギリ成立するかしないかの
境界線上にあるのではないかと思う。


そもそもボクシングの減量のネタとしては
マンモス西の「鼻からうどん」が
古典中の古典としてあるわけで
そこにどうやって
食い込んでいくかというところだが、
その活路を禁欲をモットーとする修道女に
求めたのではあるまいか。


作品全体のテーマを
駄洒落から広げていくようなことも
高橋留美子氏は行うのではないかと思うのだが、
「まな板の上の小羊」ラストの
向田会長のセリフにもある
「悔い改めよ」→「食い改めよ」あたりが
その発想の大元のような気もする。


なんにせよ装置として修道女を置いたわけだが
意外なのはシスターアンジェラが
あまり禁欲的ではないところだ。
飲酒もそうだが性愛においても破戒的である。
逆手にとって「あらあたしったら」
というキャラ作りもできるだろうに
それさえないところが、たいへんに子供っぽい。


ここではたと考える。


僕は「1ポンド」を青年コミックと思っていたが、
それが間違っているのではなかろうか。


「1ポンド」の掲載はヤングサンデーであった。
ヤングサンデーの前身は少年ビッグコミックである。
スピリッツからの移籍も多かったし、
サンデー読者よりも上の年齢層を
ターゲットにしていたとはいえ、
「1ポンド」の想定読者層は、
結構低めの年齢層なのではないだろうか。


ナンセンスギャグが
常に幼稚ということは決してないのだが、
そっち方向に舵を切っている様子が、
「1ポンド」には見え隠れする。


自分がターゲットから外れているのだから
物足りなさがあっても仕方のないことではあるが、
期待しているだけにどうにも悔しい。


レビューとしては
高評価をつける気にはあまりなれないこの作品だが、
分析するには興味深いところがたくさんあるので
もう少し続けてみたいと思う。