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落書きと“いいね”


落書きといっても
「落書き同然」という使われ方のような
表現物のレベルを指すものではなく
「ノートの落書き」等の
行為そのものを指す方のことについてです。


例えばバンクシーによるストリートアートなどは
高い評価を受けていますね。
しかし同じ絵でも贋作と判明した瞬間に
ただの迷惑行為となるのですから不思議なものです。

そのあたりは昨今のAI絵と通ずるものが
あるような気もします。
感動したかどうかは関係なく
感動する価値があるかどうかの見極めが
まず問われる、といったような。


私が好きなことは、“落書きをすること”である、
そういった場合にそれは
自分の絵を謙遜して落書きと称しているのではなく
自分の好きなものを好きなように描く、
といった意味であるように思います。

好きなものを描いて、
それが他の人に評価されるなら最高ですよね。
しかもそれで対価までもらえるとなると
喜びもひとしおかと思います。

好きなものを描く、
そう宣言されてしまうと
何をどんなふうに描くかについて
口を挟む余地はありません。

“金は出すけど口は出さない”という契約が
成立してしまっている。

広義でのパトロンみたいなもんでしょうか。


先日ちょっと書いた“ラ○ーノーズ騒動”の際に
アーティストを応援するならば
彼等をいい気分にノセるために
良い評価だけを挙げるべきだ、という
一説を見ました。

なるほど、一理ありますね。

“ファン活動”っていうのも定義があいまいで、
なんなら“ファン”と“ファン活してる人”は
別の業種だ、ともいえるかもしれないですが
今どきは“推し活”という言葉がポピュラーになり
また先鋭化しているので、
推しを“勝たせる”ことが第一の、
そして絶対的な目的になっているのかもしれません。


しかしですねぇ、
“なんでもいい”ことにしちゃうと
“なんでもいい人”になっちゃうんですよ。

その“いいね”に価値があるのか。

その考え方でいくと
インプレゾンビのコメントにも
価値があることになるけれども。

そうではない気がするんですけどね。

〈おしまい〉