のんびりやっております。
『人魚の森』のレビュー、その8です。
前回はこちら。
先週は 湧太と真魚が
なりそこないを撃退したところまで取り上げました。
バトルシーンについては
感想をすっ飛ばしてしまいましたが。
その“なりそこない”が
登和と佐和の母親なのではないかというのが
前回の主題であります。
なりそこないは
人魚の肉へたどり着くまでの障壁であり
その番人となっていたともいえるわけですが、
図らずして
登和や佐和が人魚に近づけないようにし
彼女らを守る役も担っていました。
知性はないでしょうから
それはなりそこないの意志ではありませんが、
それを、“動物的な母性本能”として
作中に配置したのではないか、と読むのも
また一興ではないでしょうか。
奇しくも、なりそこないは 作中で
登和や佐和とは対峙していないのです。
それは、“そう読めるように”かなぁ、と
考えたりするのですが。
おでん串みたいになっちゃってる
人魚となりそこない。
登和が人魚からその肉をこそぎ取ろうとした瞬間、
息絶えていたと思われた人魚が登和に襲いかかる。
この人魚塚、“氷穴”とかでもないだろうに、
磔にされてから少なくとも半世紀ぐらい
腐敗もせずに生きているなんて
クマムシもびっくりだな。
持っていた斧で人魚の首を落とし、
窮地を脱した登和は
そんな人魚の様子を「私に…似てる…」と呟く。
思わず漏れた心の声、といった描写だが
何十年も磔にされていた人魚と
自分を重ね合わせるということは
登和は自分を相当惨めに思っているのだろう。
確かに、佐和に“やられた”ということでは
その心象は察するに余りあるが、
それは実は本質ではなく
そのことで座敷牢に幽閉されたこと、
自分の人生を失ってしまったこと、を考えると
本来ならばやはり
彼女が恨むべきなのは父親、
そして家柄といったものであるべきなのだ。
しかし登和にはその 封建的な家柄を恨む素振りが
ほとんど見られない。
まぁ確かにそれに言及すると
佐和の魂胆といった作品のトリックが
ボヤけてしまうから、
この作品がそこに触れないのは
正しいのかもしれないけれど、
その取捨選択については
作者の“家長制度”に対する考え方も
おおいに関係しているのではないかな、と
僕は考えます。
自分を卑下する登和ですが、
“レビューその4”でも少し触れたように
彼女は人魚の生き血を飲むことで
病気を克服しています。
思いもかけず得られた余生で
やれることはたくさんあっただろうに
そうできなかったのは、
佐和のせいだったでしょうか。
…いや、やっぱり父親のせいなんですよ。
そういえば、
登和は何度も腕の付け替えを行っていますが
腕を切ったまま、継がなかったら
どうなるんでしょうね?
単に片腕になるのかなぁ。
鬼の手よりは、そのほうがよかったんじゃ。
だって戦前戦後といった時期ですし
戦争で失ったといえば疑われることもないでしょう。
歳をとらないことはちょっと誤魔化しにくいですが。
人魚の肉を削ぎ取った登和は
その肉を佐和に差し出す。
この時の登和の表情が絶妙です。
比較的小さな作画なんですが、
泣き・嘲り・自虐・諦め、といった
いくつもの感情が入った、
“女流作家”たるこの頃の高橋留美子氏の
実力を示す作画だと思います。
人魚の肉を突き付けられ、動揺する佐和。
「な…なにを…」というのが
彼女の最後の言葉となりました。
この後、登和による種明かしが始まりますが
佐和はそれについて、もう語りません。
ここもミソです(次回レビューで言及します)。
登和が人魚の肉を追い求めていたのは
自身の不老長寿のためではなかった。
佐和に、自分が受けた仕打ちを
同じように味わわせるためだった。
この時の登和の作画だけれども、
彼女の眼の中に、タッチが入っています。
これ、なんですかね?
こぼれそうな涙、でしょうか?
ここで涙を貯めているのかどうかって
すごく重要な気がするんですよね。
表情も、人を喰ったような三白眼ではなく
素直に純粋な顔をしているし
この一瞬、
彼女は“自分の想い”に
すごく素直になったのかなぁ。涙だったのなら、ね。
というわけで、今回はここまでとなります。
次週は『人魚の森』のトリック描写のところですね。
引き続きどうかよろしくお願いいたします。
〈つづく〉
(続きの第9回はこちら)