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『人魚の森』レビューその7


今回は『人魚の森』のレビュー7回目です。
前回はこちら



登和によって、人魚の骸が磔にされた穴倉へ
突き落とされた真魚

その背後に恐ろしい影が近づいてくる。
“なりそこない”である。


これは僕の仮説なんですが、
そして過去には先人が同じような説を
唱えていたかもしれませんが、
このなりそこないは
登和と佐和の母親なんではないでしょうか。

レビューその4でも少し書きましたが
母親は作品中、1コマだけ出てきます。
しかしその後、ぱったりと出てこなくなる。

父親は亡くなった話が出てくるが
母親のほうは亡くなった描写がない。
しかし家族が登和と佐和の二人きりになった、
という台詞はあるので
どこかのタイミングで母親は死んだ、
あるいは行方不明になったのだ。


最近はどうなのか知らないが、
『らんま』初期の頃までの高橋留美子氏は
母親に冷たい節がある。

むろん例えばあたるの母、ラムの母、
ランの母やテンの母、響子の母などなど
エピソードに食い込んでくる母親キャラは
多数いたわけだけれども、
どうもみんな、人間っぽい夫を支えるために
自立してしっかりしているというか
愛嬌がないというか可愛げがないというか、
愛着を持ってもらえるような描かれ方が
なされていないように思うのだ(テンの母は
面白味があるがあきらかに変人である)。


これは高橋留美子氏の生育環境に因るものなのか
彼女の母親観に因るものなのかわからないが
平井和正氏との対談あたりを読み返すと
父性に絡める形で
そういう話も出ていたかもしれない
(めんどくさいから調べないけど)。

まぁとにかく なんとなくだけれども
陰湿に 母親キャラをひどい目にあわせる、って
あってもおかしくないような気がするんですよね。

そして、裏設定的に作品に仕込む。

なんかそういうの好きそうじゃありませんか?

だって、母親が存在したことを明示しておきながら
その後一切触れないなんて
あきらかに意図的ですもん。


ただ ではどうして母親が“なりそこない”に
なったかというと、
これは100% 推測になってしまいます。

佐和が人魚から生き血を採ったのですから
その時は穴倉に“なりそこない”の危険はなかった。
“なりそこない”が出現したのはその後であります。

さらにいえば、
この“なりそこない”になった人物は
なぜ人魚塚の場所に近づけたのか。
在処を知る、家長に近しい者だから、でしょう。

その人物はなぜ人魚の肉を食べたのか。
母親だとすると、時代的にも
家長に背いて己の欲のために食べるとは思えません。

・登和のために毒見をした
・佐和に毒見をさせられた(そそのかされた)
・夫に毒見をさせられた

というところでしょうか。


登和に「あれはなんなの」と聞かれて
言い淀んだ佐和は

「不老不死になりそこねた人間…です。」
と答えますが、
これが実は(元)母親のことを言っているとしたら
佐和は、母親の“なりそこない”化に
一枚噛んでいますよね。


“なりそこない”の正体について考えると
横溝正史的な
人間のドロドロした部分が渦巻くような
えぐみを感じます。

まぁ、あくまで仮説ではありますが
人魚の森』を、単行本の表題作にするぐらい
作者が気にいっているということは
結構アリの線なんじゃないの?と
思っているんですがどうでしょうか。


物語はこの後 湧太が加勢にやってきて、
物理法則に反する謎の技を用いて
“なりそこない”をやっつけます。
その辺りは割愛です。


では、今回はこの辺りで。
次回もよろしくお願いいたします。

〈つづく〉
(続きの第8回はこちら