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『人魚の森』レビューその6


人魚の森』のレビューも早や6回。

なぜこの作品が単行本の表題作だったのか
ぽつぽつと考えているのですが
“人(ひと)”が描かれているという点では
『笑わない』や『闘魚』よりも
読み応えがあるような気がしています。

むろん全2作もアクションがよかったり
スピード感のある展開が心地よかったりしますが
高橋留美子劇場』に続くのは
『森』かなぁ、と思うのです。

作者の本懐は、
そちらだったんではないかなぁ、
そちらだったんだろうなぁ。

おっと、前回の第5回はこちら



真魚を大八車に括り付けて
人魚塚に向かう一行。
どうでもいいけどまた佐和婆さんが
大八車を引いてるよ……。
高齢者なのに容赦なく働かされてるな。

自分を欺くようなことがあれば
真魚の首をはねる、という登和。
まるでその台詞に反応するかのように
真魚が“ピクッ”としている。

うーん、この“ピクッ”は
真魚が意識を取り戻した、でいいんだよなぁ?
登和の不穏な発言を聞いて“ピクッ”とするのは
佐和の役目だから、どうも呑み込みにくいな。

真魚に食ってかかられて
「あら、もう生き返ったの。」と返す登和。
こういう台詞が出ると、
じゃあ今まで死んでたんかい!と思ってしまうが
少し前に椎名医師が執刀しようとした時には
既に蘇生して血色も戻っていたと考えるのが自然だ。
だからこの登和の台詞は
戯れの買い言葉のようなものだろう。

真魚を追おうとした湧太は力尽きて倒れてしまう。
その両脇には大八車の轍があるがこれは
湧太が真魚を追っている状況説明以上に、
轍があったから(登和でさえ探し出せなかった)
人魚塚まで(この後)辿り着けたのだ、という
伏線になっている。
そのことを、この先 物語が進んでも
わざわざ説明したりしないところがいいですなぁ。

その割には、あまりにも象徴的過ぎる人魚塚。
目印の大木まで植わっていて、
隠す気があるのかないのか……。

人魚塚の中に引っ張り込まれようとする真魚
なんかカワイイぞ!?
すぐ先でもこんなだし。

 

真面目にやれよ(こういうの大好物です)。

人魚の骸を目の当たりにして高揚を隠せない登和。
登和にとって人魚は一義的なものではないはずだが
やはり長年追い求めていただけあって
興奮してしまったのか。

登和の身を案じて(人魚の肉を)食うな、と
忠告する湧太。
登和は何度も自分を殺そうとしたのに、だ。
聖人君子かよ。

真魚が無事であることに安堵の表情を見せる湧太。
いやー、この顔が留美ックの醍醐味だなぁ。
一つ前のコマでも

笑みをこぼしている湧太だが、

こっちのコマのほうが
“死にかけ”だからこその優しい笑顔で、
このシリアスな場面なのに
湧太が生死を彷徨っていることを
こういうかたちで示唆してくるというのが
たまらなくゴージャスだ。

人魚の肉は毒なのだ、と湧太に諭される登和。
いや~、味わい深い!! 良すぎだろこのコマ!

登和はどんな気持ちで湧太のその言葉を聞いたか。
どういうつもりで、「知ってるわ」という言葉を
飲み込んだのか。
佐和に人魚の肉を喰らわせる
その瞬間のカタルシスのために、
悪魔のような心で、黙っていたんだろうなぁ。
ここすげぇ面白れえ!!

(人魚の肉は猛毒なのだ、という湧太に)
「あなたは生きてるじゃないの。」という登和。

「あなたみたいに、私も大丈夫かも」と
言っているのではないのだ。
「(私と比べて)あなたは生きているのね」、と
自分が陥れられた不運を見つめているのだ。

この後すぐに湧太が

真魚に会うまで五百年かかったのだ、というが
この言葉も登和には
“自分は〈五百年分の一人〉の生存確率の罠に
嵌められたのだ”と解釈されたことだろう。

不老長寿になっても、死ぬことになっても
どちらでも構わない、という登和。
登和の行く末がどちらになっても、と読めるが
佐和に食わせた場合の佐和の行く末の話である。
この台詞が上手いですなぁ。
しかもこの台詞は“別に無くてもいい台詞”なのだ。
それなのにわざわざ整合性をとって
トリックに組み込むという執着が素晴らしい。

「さあ、とってきてちょうだい。人魚の肉を!」




というところで今週はここまで。
次はなりそこないとの対決です。
来週もよろしくお願いします!

〈つづく〉
(続きの第7回はこちら