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闘魚の里 レビューその6

「闘魚の里」レビューその6!
前回のその5はこちら

 


人魚を手に入れて、宴を催す逆髪衆。
人魚の肉を独り占めする頭に、
苛立ちを覚える下っ端ども。

でも人魚の肉はめちゃくちゃ美味いらしいから

頭が独り占めしようとするのも無理はないよね(違

まぁしかし人魚一頭分ともなると
一人で食いきれるとも思えんがなぁ。

人魚の上半身なんかは
ちょっとカニバリズム入ってるけど
その辺どうなんでしょ。

蘇生した湧太に喉笛を掴まれる見張り番。
なんか白土三平みたいなタッチだな。

頭に噛みついて抵抗する鱗。
そしてそれを見やる砂、だが
砂の作画がコメディの文法になっている。

この後の、

戻った湧太を見て嗚咽を漏らす鱗や

なりそこないに追い詰められて
ピンチの鱗もそうなのだが、
ところどころコメディだよね。

シリアスな場面なのに
なぜわざわざ緊張感を削ぐような描き方をするのか。

まーわりとマジで
シリアスな展開をひたすら続けることが
なんか恥ずかしいから、
だったりするんじゃないかと思うんですけれども
(照れ隠しについてはこちらでも触れています)。


一夫多妻を砂の前で堂々と述べる頭。
時代的にも問題ないことなのだろう。


で、その次のコマで
自分の話に自分でオチを付ける頭。
ここで頭に涙が作画されているのだが、それは

これとセットで
“芝居じみた、なにかっていうとすぐ泣く
ちょっと面白い敵キャラ”を
描写しているんだろうけれど、
涙の作画があまりにもわかりにく過ぎる。
もったいない。


敵の頭領のところへ討ち入ろうとしたら
暖簾越しに何かが投げつけられてきたので
思わず抱きとめちゃったでござる、の湧太。
投げられたのが危険物だったらどうすんの。


湧太の放った刀が肩に刺さり、苦しむ頭。
さぞ

と言わせたかったことだろう。


人魚の肉と適合したかと思わせた頭だったが、
しばらくするとやはり拒絶反応が出てきた。

怪奇シーンなのだが、「北斗の拳」に乗じてか
完全にウケ狙いに来ているように思える。
「めこっ」にしても、
ひでぶ」系トリビュートだろうしね。

コメディかというとそういうわけでもなく、
シリアスの中に放り込まれた滑稽さ、
のような様相だが、
高橋留美子氏の場合は
「うる星」などのコメディの印象が強いだけに
“笑かしにきている”感が強い。

エンタテイメント性は高くなっているが、
「闘魚」の、作品としての“格”は
このせいで少し落ちているように思えるのだが
いかがだろうか。



破滅に向かう逆髪衆の頭に
因果応報だと語りかける砂。

そんなこと言われても、
いい女を攫ったことと
その女が“たまたま”人魚だったことは別の話で、
避けようもないんだけどね。


「(砂の)生国にはわしの仲間が大勢いた。
おまえら(逆髪衆)をけしかけて
人魚狩りをする必要もなかったのに。」


この台詞はかなり難しい。
「闘魚」が呑み込みにくいのはこの台詞のせいだ。


まず「仲間が大勢いた」ことの脈絡がわかりにくい。
逆髪衆を出さずとも、というふうに繋がるわけだが
「(頭が)生国の仲間たちにやらせればよかった」と
汲み取れてしまうのは
予定されたミスリードではなく
ただ単に誘導不足である。

「なかったのに」が
諭しているように読めるのも
厄介なところだ。
そうなると誰の話なのか不明瞭になってしまう。


すべて知ったうえで噛み砕くと
「攫われることなく生国にいれば、
仲間たちが人魚を獲ってきてくれるので
わしもたやすく産前の滋養を得ることができた。
わしを攫いさえしなければ、人魚狩りなどで
逆髪衆に犠牲を出すこともなかったのに、
(お前たちは)『なんと愚かなことよ』」
というようなことを言ったのだろう。


この台詞のわかりにくさは
ここでまだ砂が人魚であることを
伏せているからでもある。

それは後の「わしも、人魚さ…」という台詞に
クライマックスを持っていくためであり、
そのために多少の無理は
通してしまったということだろう。

しかしこの「闘魚の里」では
人魚も二種類、不老不死も二種類、
人魚の肉を喰う目的も二種類、と
混乱しやすい構造になっているのだから
わかりやすい台詞を心掛けたほうが
よかったんじゃないかと思う。


この台詞そのものは
インパクトがあっていいんだよなあ。


なんとなく
エンタテイメント作品を味わった気には
なるんですけれども
じっくり味わうと、いろいろとね。


さて、残すはラスボス戦となりました。
次回もよろしくお願いします。〈つづく〉