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闘魚の里 レビューその5


このところ「闘魚の里」レビューを
続けてるんですが、かなり長くなってきました。

まぁ1回分があまり長くなりすぎても
気力が持たなくて冗長になるので
このぐらいのペースが僕にはちょうどいいようです。
というわけでその5となります。
レビューその4はこちら


人魚を獲りに出た鱗と湧太を追う逆髪衆。
船首にいるのは物見が得意そうな奴らしく
目玉がぎょろりと飛び出ている。

しかしこの眼球が出ているという作画は
なりそこないの描写でもあるだけに

あまりうまいやり方ではない。
気が散ってしまう。

ネーム打ち合わせではどういう話がされたのか。
当時イケイケ真っ盛りの御大ですからなぁ。


人魚、ついに大ゴマで登場!
この時、まだ顔は見えていないので
“美しい人魚である可能性”も持っている。

だが、この時点で既に
人魚の身体の作画が女性のラインではない。
腕、背中には筋肉を思わせる盛り上がりがある。
実際には人魚は化物のような姿なので
設定に嘘は付けない、というところか。

まぁしかし、制作に余裕があれば
水飛沫やら何やらで
読者の欺きようはあったように思うけれども。

もっともこの見開きの最後のコマで
あっさり人魚の不気味な顔を開帳しているので

仕掛けの意図など、あまりないのかもしれないが。


人魚を追って飛び込む湧太。
いや~それは無理があるだろ~。

少年漫画の描写に
とやかくいうのは無粋だが、
「人魚姫」のようなファンタジーとは違って
「闘魚」は一応
物理的法則の元に描かれた作品であるし、
気になるものは気になるのだ。

水中において、
魚のスピードに人間が追いつくことは
ほぼ不可能、ということは
今では多くの人が知っている。

インターネットの普及を待たずとも
例えば水族館のマグロの回遊など見れば
魚のスピードが桁違いということは
すぐにわかってしまう。

逆にいえば、「闘魚」が掲載された時代だと
その辺りの科学的な知識が
まだまだ大衆に行き渡っていなかったと
いうことだろうか。


人魚に問いかける湧太。
この頃の湧太はまだ不老不死ビギナーなので
人魚に知性があると思っているのだ
(まぁその辺グレーだけれども)。

爪による攻撃もしないし、
海中に留まることでの窒息死も狙わない人魚。
やっぱり知性はないのかもな。


人魚もろとも銛に貫かれて絶命する湧太。
まぁ死なないんですけどね。

湧太や人魚について、作品中では
「不老長寿」と記載されていますが
このブログ上では「不老不死」と書いています。

人魚由来の者たちは首を撥ねられない限り
そうそう死なないんですが、
「長寿」という言葉には
「死なない」というニュアンスがないように思えて。

それにしてもこの死なないメカニズム、
そうとう無理がありますよな。

串刺しにされて、湧太なんかは
相当の出血をしたと思うのですが、
蘇生の際にその血は
どこからまかなわれているんでしょう。

魚釣りの際には血抜きをしたりしますが
人魚を、血を抜いて開いて干物にしても
死なないんですかね?

湧太だって、どれだけ身体が欠損しても
首が無事なら生き返るんですかね?
それもう「鬼滅の刃」の鬼じゃないですか。


捕らえられた鱗に手を出そうとする雑兵。
「ばっきゃろー」と罵倒する鱗は竜之介っぽい。

コメディじゃないので
「ばっきゃろー」はおかしい気もするけど、
まぁ少年漫画だしな。

蘇った砂が鱗の前に姿を現した。
酒を口にしながら語り始める砂だが、
姐さん、それ間接キッス……。

妊娠中の飲酒はダメですよ、と言われ始めたのも
平成に入ってからかもしれないなぁ。


砂の亭主は三年前に逆髪衆に殺された。

逆髪衆は人魚を見たことがないはずだから、
その亭主も人間の姿をしていたはずだ。

しかしその亭主が人魚だったか人間だったかは
語られていない。謎である。


また、もう一つ語られていないことがある。

砂の元亭主が人魚だったとすると

「人魚は笑わない」に出てきた人魚たちは
女ばかりだった。男を異端視していた。

なのに「闘魚の里」の砂の種族は
男女が一緒に暮らしているということか。

いや、砂は
“亭主が男だった”とは言ってない。
女同士、あるいは亭主は発情を促す当て馬で
人魚自体は単一生殖という可能性もある。
なんにせよこれも謎である。


出産の滋養として人魚の肉が必要という砂。

この時はまだ砂が人魚であるとはバラされておらず、
人魚の肉を食べた人間、というふうに
叙述トリックっぽく描かれている。

コマの背景には立ち昇る気泡が描かれており、
これは砂が水棲生物であることの伏線だろうか。

いや、もしかしたらこの気泡っぽい作画は
「不思議なメルモ」とか「ブラックジャック」等の
手塚治虫の技法のように
栄養素が溶けていくイメージなのかもしれないな。


人魚が人魚の肉を必要とするというのは
カマキリの共食いにも似て
ドラマチックではあるけれど、
身体の欠損もものともしないような人魚が
自然の摂理としての出産で
そんなにエネルギーを必要とするものかね。

まぁいいけどさ。


いや~しかし、「闘魚」は情報量が多いなぁ。
ぶっちゃけ、エンタテイメント性を増すために
投入に次ぐ投入、という感じがしなくもないけれど。

というわけで次回に続きます!〈つづく〉