ぼちぼちと更新していければ

(毎週土曜日中の更新を目指しています)









幽霊の夢


今日は木曜日。
ということはあれから一週間経ったわけで
そろそろほとぼりもさめた頃でしょうから
幽霊のことを書いてみたいと思います。

 


少し前に tekuno0260 さんが X で


とポストなさっていて、
そのことがずっと気になっていたのですが
僕はわりと“幽霊の夢”派なんですよね。

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某所で『最後のデート』でのあたるの振る舞いを
“「お仕事」としてのデート”と表現なさった方が
いらっしゃいました。

“仕事”というとどうしてもビジネスライクで
無味乾燥なイメージがありますけれど
そういうことではなくて、
“彼がやるべきこと”
(“彼はやるべきことをやった”、の
“彼がやるべきこと”です)、
それを称して“仕事”というのであれば
僕はわりとそれに頷ける部分があります。


人が人らしくその思いやりに沿って動く、
慈愛(愛情とはニュアンスが違う)とでも
いうんでしょうか、
実際には望ちゃんが不憫だったから・
可哀そうだったから、なんですが
しかしだからといって
“してあげてる感”が出ないように
がんばってそれを隠し、
対等の、同じ年頃の若者同士のように接する、
そのがんばりは「仕事」だと思うんですよねぇ。

またそれが仮に望ちゃんじゃなくても
きっとあたるは同じようにやさしくしたでしょう。
「おれはいつだってやさしいわい!」は
「おれは誰にだってやさしいわい!」でもある
(女好きということではなく博愛的な意味で)。


だからこのエピソードであたるがデートしたのは
望ちゃんという個人では
なかったんじゃないかなあ、と
僕は思うのです。あくまで僕の感想ですが。

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地上波で『最後のデート』が放映された数日後、
改めて『ダーリンのやさしさが好きだっちゃ…』を
見てみました。


アニオリ部分で、望ちゃんの母親の存在感が
かなりあったわけですが
この部分、若い時の僕はどう思ったのかな。

ちょっと覚えていませんけれど
人の親となった今の僕は、

望ちゃんにも、
望ちゃんのことだけを一心に考えてくれる人が
ちゃんといたんじゃん

と思ってしまいます。

望ちゃんに罪はないけど
親の心 子知らずだなぁ、って思いますねぇ。
しょうがないんですけどね。

そしてそのことで、
原作よりも少し、望ちゃんの儚さがブレます。
一番かわいそうなのが
望ちゃんのお母さんになっちゃう
(母親もまた あたる達に救われたとはいうけど
“望を救ってくださってありがとうございます”
というのが母の救いになったかというとそれは
母親の気持ちを少しでも癒した、という話であって
娘を亡くしたこと、娘を助けられなかったこと、
娘が自分(母)を振り返らなかったこと、などは
救えたとはいえないと思うのです)。

だから僕はこのアニオリは
あまりマッチしてるとは思わないかなぁ。
一つの作品としてはすごくいいんですけどね。
『最後のデート』の映像化としては
このアニオリ部分はないほうが好ましいです。
まぁそれも見越しての別タイトル
『ダーリンのやさしさが好きだっちゃ…」かも
しれませんが。

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原作『最後のデート』でもう一つ。
これは解釈の問題すぎる話なのですが
最後の花火のシーンです。

花火を背負ったあたるに、
望ちゃんは目を奪われます。

望ちゃんは目が離せない。瞬きもせず。

目の前にいるのが あたるであるというだけではなく
それは望ちゃんの“願い”そのものだった。
不幸なばかりと思っていた自分の人生だったが
そんな自分にも“願いが叶う”瞬間が訪れた。

「あぁ、神さま!」と思ったかもしれません。
彼女の願いが叶うなんて奇跡のようなことで、
その奇跡に出会って、彼女は放心します。

「腕…組んでいいですか?」といった彼女の声は
掠れていたかもしれない。
少し震えていたかもしれない。

それが、僕の思う原作のこのシーンです。


少し目を閉じたりしないし
もじもじと俯いたりもしない。
僕なら、ですが。

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冒頭の“幽霊の夢”か“夢こわしちゃ”か、ですが
実のところ原作においては、最後のラムの
「うちも幽霊になろうかな!」を引き立てるために
“幽霊の夢”という台詞にしたんじゃないかなぁ、
なんかわりとそういうメタな理由な気がしますよ~。


それでは。


〈おしまい〉