ぼちぼちと更新していければ

(毎週土曜日中の更新を目指しています)









失われた“体育の日”に向けて。

明日10月10日は、高橋留美子氏の誕生日だ。
旧体育の日とあって印象深く、
毎年その日が近づくと律儀に思い出してしまう。

ウン歳のお誕生日おめでとうございます、
というよりは
ここまで作家活動を継続なさってきたことが
おめでたいと言えるし、
これからの一層のご活躍をお祈りしております、
と、まるで年賀状の文言のようだが
そんな気持ちである。

体育の日は令和2年に“スポーツの日”と
なってしまい、“移動祝日”となった。
10月10日を特別な日と認識している僕にとっては
かなり残念な変更だ。

記録上、晴天が多いとされる10月10日は、
いろんな学校で運動会が催されることも多かった。

そういえば、行事が多いとされている
「うる星」の友引高校では、
全ストーリー中、“運動会”は一度しか
行われていない。

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「体育祭危機一髪…」(6-8)

体力勝負のイベントはいくつも行われているが、
行事の花形ともいえる「運動会」が
一度っきりだったのは、
時の流れを止めて、あたるたちを“2-4”に
縛り付けておくためだったのだろうか。

ちなみに、玉入れが印象深いが

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このエピソード(1-8)は“節分”である。

時間が進んでしまうから、
運動会は1回しかできないというのであれば
節分も一回しかできないはずなのだが、

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「鬼に豆鉄砲」(7-9)

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「うちらの節分ケンカ祭りだっちゃ!!」(16-11)

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「節分危機一豆」(26-1)

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「怒りの空中戦」(30-6)

と、節分は何度もやっているので、
「(運動会をやらないのは)時間を進めないため」
というのも、妥当な理由ではなさそうだ。

小学館の担当さんも何度か変わってるし、
いろいろあるのかもしれないけど、
ちょっとした“謎”ではあるね。



先週は多忙で、テキストを上げるのが
木曜日になってしまいました。
よろしければそちらもご覧ください。〈おしまい〉

メタ構造のエピソード うる星「あたるの引退」レビュー

この10月4日、総裁任期満了ということで
菅総理大臣また菅内閣は総辞職となった。
後任には自民党総裁選挙を勝ち抜いた岸田氏が
就任することとなる。

子どもの頃や若い時は、
与党の総裁が総理大臣になる、という構造も
よくわかっていなかったし、
総理大臣がなんたるか、さえおぼろげだった。
「ゆうひが丘の総理大臣」は見てたけど。

日本で一番権力を持っている人、というぐらいの
認識だったかなぁ。

そんな総理大臣が辞職する、
という出来事はしかし、
スキャンダルであるとか、
あるいは逆に義侠心とかの
個人的な事情によるものではなく、
政党のパワーゲームに
大きく影響されたものなのだと僕が理解したのも、
かなり歳をとってからのことだった。

うる星やつら「あたるの引退」(7-3)は
(たぶん)昭和55年(1980年)年末に
サンデーに掲載されたエピソードで、
おそらくはアニメ「うる星」の制作も
内々には決まっていた時期だろう。
そう考えると、
あたるの身の振り方を問うこのエピソードが
描かれたことの意味なども邪推できて
たいへん面白い。

このエピソードが掲載されたコミックス7巻は
アニメ化のニュースから入った僕にとっては
当時の最新刊であり、
だからたいへんに思い入れのある巻だ。

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表紙もいいな。
いろんな場所で、
この表紙イラストの模写、ファンアートを
見かけたものである。

よく見たらこのイラストの(作者による)背景、
「炎トリッパー」のタイトルイラストと
色の構成がすごく似てるな。

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この色の取り合わせがお好きなんだな。

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ちなみに長嶋茂雄
1993年に巨人軍監督に復帰したが、
「うる星」連載終了は1987年なので
セーフである(セーフ?)

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力の入ったコマだ。
突然出現するマイクも、
ギャグ漫画としての「うる星」の
真骨頂といえるだろう。

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ラムのこの表情は珍しい。
他には使われていないんじゃないかな。

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メタである。
「うる星」ではちらほら見かけることであるが

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(画像は9-3「三つ子の魂、百までも!」)。

そういえば“メタ”という言葉、
現代においては3つの意味で使われていて
たいへんややこしい。

暗喩としての“メタファー”のメタ、
次元を超える“メタフィクション”のメタの他に、
最近はゲームにおいて相手を封じる
“メタゲーム”のメタというのが出てきた。

それらの言葉が使われる状況というのがまた
アニメとかゲームとか、
同じようなところで使われるので
どの意味で言われた“メタ”なのか
判断が付かないことがたまにある。

なんとなくやり過ごせばいいのだろうけど。
きちんと理解して反応したい、というのは
年寄りの、年寄りしぐさなのかもしれないな。

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「うる星」根幹にかかわる大事な一言。
とはいえ、折につけ
ちょくちょく作者から釘を刺されることでもある。
最終回も「ボーイ ミーツ ガール」だったし。

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このおっさん誰やねん。
「うる星」には出てきてないと思ったが。
背古井さんなんだろうけど、
「めぞん」もギリギリ始まっているので
四谷さんかもしれない。

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“好き”の反対は“嫌い”ではなく“無関心”である、
とはたまに言われる言葉だが、
クラスメイトの素っ気ない態度に比べ、
面堂は本当にあたるが好きなんだなぁ。

まぁしかし、
“何も起こらないエピソード”であった。
これはこれで、
連載中には新鮮だったのだろうと思う。

【閑話休題】レビューブログを書くということ

先週、ネット上でちょっと気になる話題があった。


元アイドルのラーメン店主による、
ラーメン評論家への決別宣言と、その波紋である。

news.yahoo.co.jp

anond.hatelabo.jp


僕がやっているこのブログも
レビューと称し、
作品に対して勝手に優劣をつけている。

自分の好きなものに対して一席ぶちたい、
あれこれ語りたい、というのは
オタのやめられない所業だと思うけれど。

クリエイティブの人たちの中には
自分のエゴサをしないだけではなく
SNSを一切見ない(傷付くから)という人も
結構いるみたいだが、
僕のこのブログも
もしかしたら暴力的かもしれず、
大人として考えなくてはならないところである。

基本的にはこのブログで扱う作品は
過去のものとなっていて、
だからそこにまつわる影響は
あまり大きくないだろうとは思っている。

昔の作品を肴に、
居酒屋でおっさんがクダを巻いている、
そういうイメージなのだ。

僕自身は漫画制作に関与しない
ただの市井の素人で、
だから上の記事にあるような
自分が何者かとして作品に関与する、
そんなことを夢見ていたりとかは
していないつもりなんだけれども。

もっとも、関与を望んでいないということは、
それによって作品がよくなることを
望んでの発言ではないということでもあり、
じゃあ何のためのブログなのかというと
これはもうただ単に
自分が気持ちよくなるためのブログに過ぎない。

ファン活動といえば聞こえはいいけどね。

なんだろうなぁ。
評論家ぶってるつもりはなくて
ネットの隅っこであーだこーだ書いてるだけ、
という自覚はあるんだけどなぁ。

ただファンといってもさ、
(当時)毎週サンデー買って、
単行本買ってたとしても
作者本人に還元される利益なんて
数円から数百円っていうレベルだっただろうし。
「うる星」「めぞん」あたりのムーブメントを
盛り上げた一員としては
ほんのちょっぴり貢献もしたかもしれないけれど
それにしたって金額でいえば、
僕一人の貢献なんて
たかがしれているだろう。

ファンっていっても、
数がまとまってこそのファンであって、
そのまとまった数を構成する
一員であったとしても、
一人としての僕は、取るに足らない存在だ。
偉そうな口などたたくべきではない。

偉そうな口はたたくべきではないけれど、
ファンゆえに何でもかんでも肯定するのではなく
いただけないことには
いただけない、と言うということも……、

ファンの矜持とかではなくて、
一オタのちっぽけな権利として、
行使させてほしいなぁ。
そう思っています。

でももういい歳だし、
甘えのない態度で臨んでいかないと。
自戒します。

引き裂かれた二人!? うる星「愛の行方」レビュー

梨の季節である。
以前は二十世紀梨
比較的容易に手に入るところに住んでいたのだが、
現在住んでいる東京ではほとんど店頭に並ばない。

「うる星」にも梨の話があって
どんだけネタに困ってたんだよって感じだが、
まぁそれはいいとして
「愛の行方」(20-3)のレビューである。

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表紙はラム(残念胸)と栗子さん。
なぜ栗子さんのほうだけ出て
長十郎さんは出てこないのか。
栗子さんが女性キャラだからなのか?

まさかとは思うがサブタイトルから考えると
娘二人が報われない愛を憂いている絵なのか?

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特に面白いことが起こらないから映さないだけで
見えないところで授業はして…ないのか。
淡々とした授業シーンなんて、
登場人物がモノローグを語る時ぐらいしか
使い道がないものだが、
こうはっきり授業はやってないといわれると、
単位とか大丈夫なのか?と思ってしまうな。

そのせいで季節が巡っても
卒業が訪れないのかもしれないが。

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栗子さんのほうは野生なのかね。
だからこんな適当な名前なのかな。

栗子さんと長十郎さんは、言ってみれば
野良犬と血統書付きぐらいの差があるのだが
そういう身分の違いの話にはされなかった。
めんどくさいことになりそうだしな。

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周りに“なって”いる兄弟の梨たちには
意識とか自我とかはないのか。
そいつらと恋の鞘当てになったら
めんどくさいことになりそうだしな。

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死なないんだ。

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ラムには長十郎さんの顔(目)は見えんのか?
後ろのページでは、ラムが栗子と顔を見合わせて
意思疎通しているように見えるが。

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なんで梨が頭にくっつくのか。
「そうだこの人間の身体を使って…!」
とかいう説明が、
一切ないところがもはや清々しいな。

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ギャグ漫画だから非常識なところはまぁいい。

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でも妖力だとか、突然変異だとか、
そういう何らかの説明はないとダメだろ。
恋愛の力なら、
同じ枝に“なって”いる兄弟梨だって
同じように恋愛するべきだし。

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ふ~ん、そうなんや。
(自分の)夢の中では抗えなかったみたいやけど。

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「だっちゃ」言葉ではないラム。
後に出てくる女言葉の竜之介といい、
アニメ版では面白いことになっていそうだけど
まったく覚えてないなー。
(ちなみにアニメ版は#127の
「愛のすみかはいずこ?栗子と長十郎」。)

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このパターンは印象に強く残るので、
あんまり多用しないでほしかったなぁ。

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アニメ版はほとんど覚えていないが
おそらく古川登志夫氏と神谷明氏が
あの感じでノリノリでやったのだろう。
覚えてはいないが容易に想像できるな。

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最初からそうしとけ、といってしまうと
話が誰得になってしまうじゃないですかやだー。
まぁ「うる星」は
誰得エピソードばっかりなんだけれども。

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そして誰得エンディング。
最後まで栗子さんはいが栗だった。
中身の栗が姿を見せることはなかった。

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大喜利オチもどうなんだろうねぇ。
ないと“しまらない”けれど、
これをオチにされてもなぁ、とも思う。
錯乱坊に言わせるのがまたお手軽っぽくて。
何とかクラスメイトに組み込めなかったものか。

 

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「ま、いつものこっちゃから」と
あたるが言うのもいとおかし。〈おしまい〉

バンド解散の危機!?「宝塚への招待」レビュー(後編)

さてさっそく続きを始めよう。
「宝塚への招待」レビューの2回目だ。

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亜月くんはなんでカッコつけてるんだ?
“憑依”などの心霊現象をバカにしている、
と見るのが妥当ではあるが、
寺まで来ておきながら
自分だけ座らないのが解せない。
真彦に対する反感もあるのだろうが、
なんか勝手なことしてるよねぇ。

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月に2回、公演を見るというのが
リピートなのか、違う演目を見るのか
よくわからないんだけど、
なんで9月以降は見なくていいんだろう。
“宝塚”ファンならわかるネタなのかなぁ
(編成の区切りとか卒業とか)。

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いやあんたも盆は働けよ尼として。

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ここで亜月くんと
ギターのフラッパーくんが出ていくが、
意味ありげに去っていくのが腑に落ちない。
準備のためとか一言言わせるだけでいいだろうに。

そこが意味深になってしまっているので
「あぁ、ステージを成立させるために
まともな二人を温存したんだな」と、
ストーリーの仕掛けの方に意識が行ってしまうのだ。

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宝塚風の衣装は突然出現したとしか思えない、
という事は宝塚風のメイクも、
おばあちゃんが霊力で改変したのだろう。
しかしそれならばなぜ、
右半身を真彦に残してやっているのか。

本来は、全身宝塚でステージに登場し、
その後、真彦の覚醒のタイミングで
あしゅら男爵化するべきなのだ。

それを端折ったのは、
ステージに登場した時のインパクトのほうを
重要視したかったからだろうか。

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ナンセンスギャグ漫画に近いからといっても、
辻褄も大事にしてほしかった気がするけどなぁ。

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はっとする正彦。
亜月の台詞が響いて覚醒したような描写だ。
しかし続く台詞が

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演奏やステージよりも
おばあちゃんに対する怒り・憎しみを
前に出したものだったため、
真彦にとっての音楽の重要性が
おざなりにされているように感じる。

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バンドメンバーは
演奏が無茶苦茶になったと嘆いているが、
どう無茶苦茶だったのかは語られていない。

真彦は曲がりなりにもギターを弾いてるし、
奇抜なパフォーマンスということでは
米米CLUBジェームス小野田のようでもあり
米米CLUBはこの「宝塚への招待」掲載当時
既にメジャーになっている)、
“WILLOW”の音楽性をどう損ねたのか、
そこは描かれなかった。

だから真彦の立ち回りが
ステージを台無しにしたのか貢献したのか、
よくわからないのだ。

コンテストがどうだったのかは描かれなかった。
ボーカル交代のことも回収無しだ。
ちょっとひどいんじゃないか、とは思う。

まぁ結局は、真彦のおちゃらけノリの解放、
というところに収束させたかったわけで、
他のことについてはページが足りない、
という感じなのだろう。

おばあちゃんとの仲直り=赦しを得たので
これから先の真彦は、棒立ちになったりせずに
ノリノリになれるわけで、
それがバンドの未来を示していると
言えば言えるかもしれないが、
やっぱり言ってもらわなきゃわからないかなぁ。

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気付くのも怒るのも遅いよ君は。

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話としては、おばあちゃんへの未練、憐憫の情を
こういう形で表しました、ということだろうけど、
この下品な感じが
フェイク/照れ隠しとは言い切れないのがまた。

前ページのおばあちゃんの変顔に被せる形の、
2段落ちのギャグのつもりかもしれないけど、
それによって失ったものもあって、
どうにも読後感が良くないように思う。

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救うつもりなのか最後に情感出してるけれどもさ、
おばあちゃんはとっくに成仏しちゃってるんだし、
供養というよりは
真彦が、宝塚を好きな自分を取り戻した、
というだけのようにも見えて、
なんだか品のないストーリーだったなー、と。

ヒューマンドラマだから
そういうのもあってもいいのかもしれないけれど、
切なくなるわけでも、ほっこりするわけでもない、
気持ちの持っていきようのない話だったと
僕は思う。

“宝塚”が“宝塚”である必要なかったしなぁ。
女の園だとか、全然関係なかった。
衣装やメイクがケバい、それだけだった。

もうちょっと、
丁寧な造りにしてくれたらよかったのに。
これ32ページあるけど、
1回でまとめるのは無理がある。
短期集中連載とかできなかったもんなのかなぁ。

すみれの花咲く頃…「宝塚への招待」レビュー(前編)

今期見ているアニメの中に
「かげきしょうじょ!!」というのがある。
以前からスポ根は好きなほうなので、
「かげきしょうじょ!!」も
女子たちが頑張っている姿がたいへん好ましい。

彼女らは“歌劇”の世界を目指していて、
物語中ではそれは「紅華歌劇」とされているが
言わずもがな、「宝塚歌劇」がモチーフである。

僕は“宝塚”には全くうとくて、
観に行ったこともなければ
テレビの宝塚番組をちゃんと
通して見たこともないのだが、
阪急沿線に住んでいたこともあって
“宝塚”の存在感はよく感じていた。

その“宝塚”をネタに取ったのが
「宝塚への招待」である。

なんだろうねぇ、このネタの取り方は。
身近にきっかけがあったんだろうなぁ。

まぁそれはいいとして、レビューを始めよう。

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漫画でも「アバン」というのかな?
タイトル前の導入部は
“宝塚”のイメージから始まる。

薄ぼんやりした記憶の描写なのだろうけれど
導入部の作画にしては物足りない。
すぐ下の真彦少年の表情と
タッチが合っていないのも気になるところだ。

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表紙である。
誰なのかというと、歌劇団の男役のわけもなく
主人公の真彦なのだろうが、

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後に出てくる“あしゅら男爵真彦”の左面なので
実質は、おばあちゃんの肖像ということになる。
花輪で囲んでいるから、
“遺影”の趣きもある。背景黒いし。
ま、見開きで見ると目線の先に
当のおばあちゃんの遺影の絵があるのがアレだが。

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1993年6月に亡くなったおばあちゃんは、
余裕で戦争体験者だ。
宝塚音楽学校を受けたのは
年齢的に考えると、戦前だったことだろう。

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ビジュアル系だ。
ここで半分ぐらいオチは見えたようなもんである。
見えたオチに至るまでを楽しむ、という
水戸黄門コロンボ的な世界でもある。

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孫だけがこういう配慮を見せるというのは
ちょっと不自然だけどなぁ。
ポスターが主張しているところとか
伏線の仄めかしがハンパないけど。

こんだけ“宝塚好き”を
認知されてるおばあちゃんなら、
祭壇周りに“宝塚グッズ”を
たくさん飾ってもらってる気がするんだが。
同好の士も、葬式にいっぱい来ているようだし。

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この人あたりが
宝塚のネタ元の人なのかもしれないな。

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好感持てるような感じに描かれてるし。

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鳥坂先輩もよくおっ立ててたが
こいつのはなんつーか下品だよな。
頁をめくる前のキメゴマだから
強めに描いちゃったのかもしれないけど
血の繋がった祖母に中指はないわー。

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歌舞音曲ってなんだ?
カタカナでルビ振ってるところから察するに
こいつらが作った音楽ジャンルの造語か?
と思ったら普通に辞書に載ってる言葉だった。
お恥ずかしい。

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渋谷eggmanとは、結構やるやん。

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この棒立ち、笑うとこだと思うんだけど
仕掛けがイマイチでそんなに笑えないんだよな。

彼らはビジュアルだけのバンドというわけでも
なさそうで、であればまず
音楽性が問われるべきだと思っているので、
ボーカルが棒立ちだからって
無神経に笑っちゃいけない、って
一歩引いちゃうんだよな。

たぶんその辺、
最近のお笑い界における、
暴力性のある笑いをとりまく世論と
同じことなんだと思う。

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真彦を含むバンドメンバーは高校生なのだが、
高校生である必要はあるのだろうか。
まぁ社会人にしてしまうと
生活基盤を問われたりしてめんどくさいんだろうが、
大学生あたりということにすれば
もっと自由に動かせる気がするんだけれども。
酒や煙草も小道具で使えるし。

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えっ、ボーカルは声と歌唱力で決めろよ。
そもそもアミダで決めたってのが有りえないし、
アミダで決めたようなバンドが
真彦の棒立ち気にするなよ、って話でさ。

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昔の記憶と見せかけて、実は
憑依されているときの視覚情報だった、という
いわば漫画における“叙述トリック”である。
これはちょっと手が込んでいる。

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見開きを使った歌劇の舞台の描写は
たいへん見ごたえがある。
手法はアバンの絵と同じっぽいけれど、
高橋留美子氏お得意の、
パースが利いていたり斜めに傾げたりといった
テクニックが絵を引き立てていると思う。

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劇場で解放された真彦。
この後3回ほど、なんとかして穏便に
彼の身体を使わなくちゃならないのに、
ずいぶん雑なやり方だ。

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霊感強いはずなのに、
素人同然のビビり具合いだ。

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霊界に持って帰れなくても、
お買い物するだけで楽しいんだろうな。

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柚子原の妖怪アンテナ的な能力として
後々でも使われるかと思ったが
そんなことはなかった。

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「パシャ」って何の擬音だろう。
この頃は舞台の撮影可だったのか?
それともおばあちゃんの
心のフィルムに焼き付けている、
みたいなことの表現なのか?

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どう違うんだよ?
と思ったら次のコマでは話が終わってて、

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なんだか繋がりが悪い。
すぐに街頭インタビューが映るから
困惑することはないけど、いろいろ雑だなぁ。

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おっとっと。

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おばあちゃんのお友だちのこの尼さん。
不吉な人物からストーリーテラーへと
大きくポジションを変えているが、
最後までギャグをやらせず、
まともな人で通したのは英断だ。
この人がいるから
安心して読み進められるような気もするのだ。


ずいぶん長くなったので今週はこの辺で。
次回に続きます。

異常気象も増えてきた昨今…「Lサイズの幸福」レビュー

高橋留美子の作品中、伝承もののスタンスで
いちばんの大作といえば「人魚シリーズ」だろう。

“人魚”というモチーフは、
日本でも古来から語り継がれてきたようで、
単なる“おとぎ話”とは違って
ぼんやり信憑性のある話である。

昭和期の漫画では、
伝承もの、古潭、言い伝えなどの
ミステリアスな昔話を題材にしたものも
よく見られたが、
高橋留美子氏もその辺りはお好きなようだ。

今回取り上げる「Lサイズの幸福」は
“座敷童”がテーマとなっている。
現代(といっても平成初期だが)において
座敷童がいたらどういう騒動になるのか、
それを“ビッグコミックオリジナル”の
読者層向けにアレンジして
描かれているのがこの作品だ。

このレビューを書くために
ビッグコミックオリジナル”を調べてみると
ビッグコミック”よりもターゲットの年齢層を
少し上に設定している、とあり、
これは僕の印象とは違うものだったので
少し驚いた。
作風などが取っつきやすい“オリジナル”に比べて
“ビッグ”は古臭いイメージがあり、
“オリジナル”は中年向け、
“ビッグ”は中高年向け、と思っていたからである。

「Lサイズの幸福」は
子供のいない夫婦が持ち家を取得する話で、
主人公たち=読者の投影 は
三十代前半といったところだろうか。

注意しなくてはならないのは
掲載された1990年、
日本がまだバブルの只中にいたという事である。

それでは見ていこう。

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扉絵は幸せそうな2世代家族の絵だ。
この和紙のランプシェード流行ったなぁ。
フローリングに大きな掃き出し窓という
この頃の憧れの住居、という感じだが
お義母さまがリビングで針仕事をしているので
おそらくここは、
買うはずだった6100万の物件のイメージだろう
(実際に購入した家では、お義母さまが
 畳の部屋を与えられている)。

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添えられたバラはなんだろう。
記念日のイメージ、ギフトのイメージ。

華やかなこの風景が理想のイメージです、と
扉で開示することで
主人公の華子のキャラクターを
読者に印象付けているのかもしれない。
実際には彼らにとっては
座敷童がギフトだったわけだが。

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初っ端、
スポンサー(予定)の義母に媚び諂う華子。
令和の今から見ると、やや不自然でもある。
義母を迎えるとはいえ、自宅で
“派手に見えかねない”化粧をする、というのが
もはや違和感だ。時代は変わってしまった。

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ダイニングキッチンの作画は力が入っている。
テーブルクロスが椅子に引っかかっているあたり、
アシスタントさんによる
写真からの描き出しのようではあるが
作画カロリーが高いとやはり満足度も高い。

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ちらりと垣間見せたように
この物語の本質は、姑との同居問題である。
華子と姑との間には
特に問題がないように描かれているが、
ひょっとしたら座敷童やいろいろなトラブルは
姑のメタファーかもしれず。

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座敷童は家に憑くというが、この話では
お義母さまが連れてきたことになっている。
言い換えればお義母さまが福の神ということだ。

ストーリー上では、座敷童の悪戯によって
お義母さまの機嫌が悪くなっているが、
要するに華子夫婦の運気に
大きく作用しているのはお義母さまなのである。
座敷童(大)は
お義母さまの暗喩だと思ってよさそうだ。

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どう言い訳しても、
華子が夫の見送りをしなかったことは事実なのだ。

来訪した姑が息子の世話を焼くことに対して
大きなストレスを抱えたからかもしれず、
この時点で華子がノイローゼに陥っているという
描写なのかもしれない。

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100坪以上はありそうで、
そう考えると6千万は安いかもしれないけど
開発前の田舎、と考えると結構なギャンブルだし、
頭金もない団地住みが最初に買う物件としては
かなりの高額だ。さすがバブル。

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華子……。完全にヤバい奴やん。

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あぁ、アカン奴や……。
平成の終盤から令和にかけて
気候変動による土砂崩れや土石流が
どれだけあったか、
この頃は予測すらできないだろうな。

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こはちょっと読み解きが難しい。
華子とお義母さまの仲を悪くするために
座敷童は悪戯をするわけだが、
そのやり方が、
お義母さまの気持ちの代弁というわけでは
なさそうだからである。

やはり座敷童とお義母さまは別人格なのか?

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このやり取りは
ある種のギャグとして描かれているけれど、
華子が妄想狂となっているのでは?
という視点で見ると、もうほんとにヤバ過ぎる。
言葉が通じていないんだもの。

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お義母さまはここまで
何も悪いことはしていないし、
なるべく息子夫婦に歩み寄ろうとしているしで
まったく非がないのだ。

華子には、そのことが見えていない。

その、「見えていない」ということが、
座敷童的ではないか。

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そうかもしれない。
そしてこの、ノイローゼじゃないのに
ノイローゼ扱いされてる、と
思い込んでいるノイローゼ患者、という構成は、
単なるヒューマンドラマではないのかもしれない。

この「Lサイズの幸福」は
ほんわか人情ギャグ漫画などではなく、
結構、ホラー作品なのかもしれない。

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スズキアルト(1988~)かな、たぶん。

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華子はアタッシェを抱いているように見えますが
まさかの現ナマですか。
事故で燃えなくてよかったねぇ。

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なぜ座敷童は隆一(夫)にも作用したのか。
そしてなぜ、夫婦を守ろうとしたのか。

本来的には家に憑く座敷童だから、
華子夫婦の未来を守ろうとするのには
違和感がある。

家を介さずに華子夫婦を守る、
その動機があるのは“お義母さま”だけである。

だからやっぱり、
座敷童はお義母さまのメタファーだと
捉えられると思うのだ。

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即座に「そんなことより」と
言ってのけるお義母さま。
ええ人や……。

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物件を買わせない(不幸な損害から守る)という
目的を遂行した座敷童。
この後、華子には見えなくなるというのが
一つの解答のような気がする。

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華子夫婦の重要な局面には影響力を及ぼすが、
ひとたび物事が収まれば、
あまりうるさくしないようにする。
つまりお義母さまは、
相当に理想的な姑なのである。

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華子にとっての座敷童は姿を消したが、
お義母さまには小さな座敷童が現れた。

それはつまり、新しく家族となった華子である。
華子はたいした働きはできないが、
ちっぽけなりにお義母さまを助けてくれる。

つまりここでは、座敷童とは
人と協調していこうという心なのだと
読み取ることもできるかもしれない。

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お互いに、お互いが
助けてくれる存在であると認め合った間柄では
この最後の掛け合いの台詞も味わい深い。
人の優しさに満ちているといえるだろう。


最後に「Lサイズの幸福」というタイトルについて。
“大きい幸福”というのは単純に考えれば
作中の、大きな座敷童を指すのであるが、
彼と共にビッグな幸福がやってきたかといえば
住宅物件自体は
希望のものより一つ落としたものになっており、
つまり最上とはなっていない。

このことから、
“(何かと比べて)ラージサイズの幸福”、
というニュアンスが拾いにくい。
好意的に考えれば、
巡り巡って最終的に手に入れたもの
(お義母さまを加えた家族で暮らすこと)が
結局は一番大きな幸せなのだ、と
(青い鳥風に)解釈することもできるが、
ストーリーの結末に
妥協の雰囲気が色濃く漂っているので
どうもそんなに“Lサイズ”な感じがしないのだ。

災厄から“守った”のは確かだが
特に繁栄につながるようなことは
起きなかったからなぁ。

そこから受ける印象を
処理しづらい感じのするタイトルなのだ。
かといってこじんまりしたタイトルでは
なんとも景気が悪くてぱっとしないし。

意味を掛け合わせるタイトルは
上手くはまると引き立つけれど、
収まりが悪いと読後感にも影響するので
あまり無理をすることはないんじゃないかな、
と思います。〈おしまい〉