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(毎週土曜日中の更新を目指しています)









響子さんを射止めたい五代くん


今期、見ているアニメに
「好きな子がめがねを忘れた」というのが
ありまして。


原作は未読なのですが
僕自身が眼鏡使用者なこともあって
「そんなに忘れるわけがないし、もし忘れても
玄関を出た瞬間に気付くはずだ」などと
最初は作品に馴染めずにいました。

でもあるタイミングから、
この作品は小村くんのリアクション芸を
楽しむ奴なんだなー、と思うようになり
そうするとメガネを忘れる設定もなんだか
コントにおける“そういう前提”のように
素直に受け入れられるようになっていきました。

娯楽作品というか、エンタテイメントとして
お笑いなどを楽しむのと同じ度量で
楽しめばよかったのだなぁ、と思いましたね。


ここしばらく、うじうじと
五代くんのことを考えています。

先週、けっこう決定的なことを
ずけずけ言ってしまったことが
自分の中で重荷になっておりまして。

僕の考えが的を得ていたのかどうか、というのは
つまり僕が
五代くんを理解していたかということであり、
しいては『めぞん一刻』を
理解しているのかということでもある。


一生懸命考えてみた結果、
めぞん一刻』は
当時の“大衆娯楽漫画”であるよなぁと、
僕の中では落ち着きそうだ。

漱石がやはり当時は大衆娯楽小説だったように。


五代くんの結婚観は
柳沢きみお氏の『妻をめとらば」にも
重なるのではないかと思っている。

まぁそりゃそうで、青年漫画誌において
青年読者を惹きつけて魅了するような嫁とり物語を
主人公の成長譚を交えながら描こうとすれば、
そしてそれが昭和であれば
そういう形になるのであろう。

この歳になってやっとわかったけれども
これって結局いにしえの
“出世物語”たちの構造であり、
おそらくは江戸の大衆芸能の頃から脈々と続く
人気のスタイルなのだ。


いってみれば“のしあがり”に主軸を置いた
サクセスストーリーなわけで、
道中にお涙頂戴エピソードはあっても
そもそもの目的を揺るがすような
自己批判はあってはならんというかなんというか。


家長制度というか「男子たるもの」みたいな
古い価値観がその根底にあって、
しかし『めぞん』にせよ『妻をめとらば』にせよ
新人類からのモラトリアムを模索する時代において、
「黙って俺についてこい」というのとは
ちょっと違うスタイルを提示する必要もあり……


特に『めぞん』の場合は
五代くんの未熟さ、幼さを許容してくれる世界が
読者にとっての心地よさをも引き出したわけだが
五代くんのそのダメさ加減が
イコール優しさかのように描かれているのは、
今から見るとまぁすごいテクニックである。


そこでうまく使われているのが
音無響子というキャラクターなのだが
五代くんは彼女のことを
いくつかの属性を持った“キャラ”……、
愛玩性を持った“キャラ”としてしか
見ていないような気がする。
“マドンナ”とはよく言ったもんだ。
ホントにその通り。


いっちゃなんだけど、
五代くんって響子さんがどうなったら幸せか、
真剣に考えたことないでしょ。

幸せにしたい幸せにしたいとは言うけどさ、
それ全部、自分が主語じゃん。

まぁ響子さんにしても
相当な俗物の可能性はあるけれどもね。


だいたいなんで教職に付かなかったのよ。
親に大学の金や、
あまつさえ東京での一人暮らしの費用まで
出してもらっておきながら。

就職で苦労しました、みたいな顔してるけどさ、
そこで苦労してるのはそこまでのプロセスに
問題があったからなんじゃないの?
なんで、管理人さんのためにがんばれなかったの?

時はバブル期だからね? 恵まれた時代だからね?


それらを解決する魔法の言葉が
「いやだってこれ漫画だから」なんだろうね。
まったくその通り。

だから僕には『めぞん一刻』が
恋愛のバイブルだなんて、どうしても思えない。
この作品は、相手を想う恋のお手本にはならない。


時代性の違いもあるけれども。

『めぞん』がすれ違い、勘違いの物語だという事で
スマホが存在しないこと、なんかが
現代との違いとして挙がったりしているけれど
そもそも男女の関係性がもう違うよね。


何も時事ネタが出てきたり、
風俗の流行り廃りが描かれているだけが
“時代性のある作品”というわけじゃなくてさ、
人の常識や考え方が
“前時代っぽいなー”ってなれば
それはもう“時代性のある作品”なんじゃないかな。

だから僕は『めぞん』を
時代に即した“大衆娯楽漫画”だと思うのだけれども。

〈おしまい〉