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尊くはない『めぞん一刻』


先週『めぞん一刻』を
“大衆娯楽漫画”だと書きました。

今でいう“日常漫画”とは
ちょっと違うかもしれないけど、
日々の暮らしの上に
定期的に何らかのアクシデントが起こって
なんかてんやわんや、みたいな。

間違われないようにしなくちゃいけないですけど
それが悪いとかでは全くない。
むしろ昔から
ずっと続いてきたフォーマットだと思います。

向田邦子氏や橋田壽賀子氏の
国民的なドラマもそうでしょう。

視聴者がその世界に同居しているかのような
没入型というか共感型というか
それはもしかしたら
双方向ではなく一方通行だけれども
楽しみ方としてはあるいは
今のメタバースに繋がるものなのかもしれない。

古くは新聞小説
あるいは雑誌連載小説なども同じで、
次回へのヒキが重要だったり
読者の欲求に対して刺激を与える、というような
多分に商業的な作りが
人気を博したのだと思います。


対して、昨今の──セカイ系以後の作品群たちは
人物描写を深掘りしてるというか、
まぁ乱暴にいってしまえば
キャラクタービジネスなんですけど、
ストーリーよりも
その場その場での登場人物の気持ち、葛藤、
喜び、悲しみ、苦しみなどの心の内面を
すごく近距離で描写するようになっている。

すごく近くで見られているから、
登場人物たちも
無責任な行動はできなくなっています。
理にかなった行動をするようになっている。

例えば、
大人としてそれはないでしょう、という動きや
男女の場でそれはないでしょう、といったことは
昨今の人間ドラマではあまりしなくなっている。
あるいはしてもすぐに内省の描写となる。

常識人じゃないと
内面の描写に説得力が出てこないから、
かもしれません。


響子さんはよく身勝手な行動をとる。
五代くんはよく失敗をやらかす。
それが許されているのは
彼らが“愛すべき隣人”であり、
“尊ぶべきアイデンティティ”では
ないからなのでしょう。


もう一つ、『めぞん一刻』の特長として
僕が挙げたいのは
響子さんが美人だということです。

個人的に最近、
“ヒロインが美人だから成り立つ作品”には
あまり入れ込めないんですが
響子さんが美人でなかったら
めぞん一刻』はたぶん成立しないんですよね。

むろん美人じゃなくても
日々の事件は同じように起こり得る。
しかし美人でなければ
誰かにその事件が注目されることもなく
なんとなく処理されて終わっていく。

そうじゃなく、ちょっとした事件が
まるで大事件のようにてんやわんやになるのは
やはり響子さんが美人だからです。
五代くんが、三鷹さんが、
響子さんの美貌にホレてるからです。

それって、人間ドラマの規範から
外れてるっぽくないですか?


ただやはりこれも決して悪いことではなくて、
また昔からよくあるプロットでもあり。

戦前はちょっとわかりませんが
戦後の美空ひばりから始まって
なんとか姉妹だとかなんとか御三家だとか、
そういったアイドルによる
いわゆる“アイドル映画”なんかは
美人をめぐるハチャメチャ騒動記、みたいな感じで
ヒロインが美人(人気者)であるところに
拠りどころを求めているわけです。

『めぞん』もその流派ではないかと僕は考えます。


そう考えていくと、
やはり『めぞん』は“大衆娯楽漫画”という感じが
僕の中ではしっくりくる。

そして、変に礼賛することなく
あの時 電車の中で読んでいた週刊青年漫画誌に
載っていた面白い漫画、というふうな捉え方が
相応しいんだけどな、と僕は思います。

〈おしまい〉