今回は、「まさか」という台詞が
使われるシーンについて書いてみたい。
取り上げる題材は「めぞん一刻」だ。
例えがないと漠然としてしまうのでまずは一例。
大学受験に行ったはずの五代に似た人影を見かけて
驚くも、そんなはずはないと思おうとする響子
(「まさか」という台詞はないけれど)。
これから「まさか」要素を取り除くと
「あっ!五代さん!五代さんじゃないですか!!」
となってそこで叱責が始まることになる。
となると居酒屋には行かないことになるし、
酔った約束での、
後日の受験付き添いもなくなってしまう。
このep.「春遠からじ!?」のプロットが、
どのシーンを起点にされたのかはわからないが、
「酔って五代に絡む」という見開きか、
「受験に響子が付いてくる」という見開きの
どちらかが、
ストーリーの山場なのは疑いのないところで、
そこからストーリーを逆算すると
響子が受験に付いていくことにしたいが
まだ五代との距離が遠すぎるので
酔わせるなどの仕掛けが必要だった、
ということになる。
その回りくどい理由付けはまた、
このep.の序盤に展開されるような、
響子の五代への気持ちがまだ
恋愛感情ではないことの裏打ちとなる効果もあり、
この時期の「めぞん」の、
響子のスタンスの紹介・説明として
周到な構成といえるだろう。
上記の「まさか」が、ストーリー上で
接続詞のような働きをするのに対して、
この「まさか」はストーリーには直接関与せず、
キャラの心象の表現となっていて、
予想される事態への拒否・否定といった具合だ。
高橋留美子作品では、その「まさか」の直前に
傍観者から、特に深い意図もなく
客観的事実や予測が、
占うように提示されていることが多い。
考えてみれば、
五代のファーストキスの話を偶然聞いた響子が
プンプンしているのを読めば
「これは響子が面白くないのだな」
とは読者には既に伝わっているのだが、
その機嫌の悪さが
管理人の立場から
下宿内のモラルを気にしているのか
女性一般から、五代の軽薄さを咎めているのか、
彼女が懸念するように
個人的なジェラシーによるものなのかは
物語上でもまだ判明する段階ではないし
読者にもわからなければ、
響子にもわからないところだろう。
だから、一の瀬のおばさんが口ずさむ歌など
そこそこに聞き流してしまうのが自然なのだが
そこに引っかかってみせるのが、
誤解と勘違いを身上とする「めぞん一刻」が
読者を、また登場人物をも
煙に巻こうとする所作なのだろう。
4-11「坂の途中」では、
響子の「まさか」が大安売りだ。
この場合は「妄想」を指して
「まさか」と言っていて、
妄想だらけの五代を擁する「めぞん一刻」では
特に珍しくはない。
ただその「妄想」が、
現実味のある可能性の一つかというと
そんなに現実的ではなくて、
夢のような誇大妄想であったり、
最悪の想定であったりするので
そこが「めぞん」のエンタテイメント性に
一役買っているわけだ。
そのことを踏まえて、というわけでもあるまいが
作品中では五代も響子も、
無難な思い至りはあまりしない。
自分を納得させるため、落ち着かせるために
「きっとたいしたことはないはずだ」
という予想を立てることはあっても、
平凡な可能性を口にして
そしてそれが当たっているような、
なんということのない日常の一幕は、
彼ら彼女らにはない。
それじゃあ物語にならないし。
逆に言えば彼らの日常は
常にエキサイティングで刺激的だ。
だからこそ「漫画」なのだが、
こんなに事件が起きては気が休まる暇もない。
そんなこともあってか、
「県立地球防衛軍」の「摂氏34度の退屈」は
当時かなりセンセーショナルだった。
このエピソードは増刊の昭和59年9月号掲載だが、
今読んでみると、
見事なまでに「日常系」のさきがけである。
当時はこれが目新しかったが、そう考えると
日本国民の生活形態もずいぶん変わったものだ。
なんか違う漫画の話をしてしまったけど
絶対・当然・通じてますよね?