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「エンドレスエイト」と令和「うる星」

 

natalie.mu
そういえばずっと忘れていたんだけど
僕は「涼宮ハルヒ」シリーズの
2009 年版を見ていなかった。

ということはあの「エンドレスエイト」を
見ていないということなんである。

噂上ではよく知っているし、
なんやかやストーリーも、そこで何が起きるかも
もう知っているから
ネット上の悪評も手伝って
腰が上がらなかったのだが、
配信で見れるのならこの機会に見てみようかな、
ビューティフル・ドリーマー」絡みで
時折り話の壇上に登る「エンドレスエイト」だしな。
そう考えて、見てみた。

これが、結構面白かったんである。

一番大きなところでは
ループものがいつ変化するのか、
ということへの期待感がその源流なんだろうけど、
8 話使うんだから
8 話目まで期待が裏切られ続けるということも
おおよそ予測できていたので
そのオチへの期待感だけで楽しかったわけではない。


まず僕は、京アニのアニメーションが
好きなのである。いくらでも見ていられる。
キャラの細かい動き、シーンごとのレイアウトや尺、
背景やアフレコに至るまで、
少しずつ食むような楽しみ方ができると思う。

ちょっと前に web で見た

omocoro.jp


この記事のような、丹念な楽しみ方ができる。

若い頃は、
とにかく読んだ本の数を競うようなところがあって、
先に進むことを優先していた気がするけれど
最近は本を読むのもすごくゆっくりだ。
行間を読むというか、前段との繋がりとか
なぜその言い回しをしたのかなど
その都度立ち止まって考えながら読むように
なったからである。


アニメの鑑賞も同じで、
すごく考えながら見るようになった。
アニメには“偶然がない”。
だから、制作者の意図を、
取りこぼさないように汲み取りたい。楽しみたい。
そして京アニのアニメはそれに値する。


そのことは置いておくとして、
僕は「エンドレスエイト」を見ながら
うる星やつら」のアニメのことを考えていたのだ。

原作によってその展開を把握している視聴者が
新しく提供される映像を見るのは、
エンドレスエイト」を体験することと
ほぼ同じではないか、というのが
その思考の大まかなスジである。

エンドレスエイト」自体が
視聴者とのメタ構造を目論んだ作品であり、
それについては僕が改めて述べるまでもなく
先人たちによって大いに語られてきた。

しかしそれをもってしても、
エンドレスエイト」は不評であった。

僕のようにそれが 8 回に渡って展開されると知って
視聴するならともかく、
リアルタイム勢が 8 週間/2 カ月に渡って
エンドレスエイト」に束縛されたこと、
その先に進めなかったことは
さぞ苦痛だったことだろう。

そう、キョンのように。

さんざん言われているだろうけど、
エンドレスエイト」は実験として面白いし、
その実験が実際に行われたというその事実が、
後世から見るとまた一段と面白い。

長門が観測者だったように、
後世の僕らもまた観測者である。

長門は退屈だったかもしれないが、
僕は、京都アニメーションがやってのけた
歴史的な偉業を、
ちょっとした興奮を伴って見た思いだ。

リアルタイム勢の視聴者たちが
苦しんだことも偉大だと思う。
彼らが苦しめば苦しんだほど、
彼らはキョンの気持ちを痛感したことになるのだ。

わりと羨ましい。


そして、十年以上経過しても
エンドレスエイト」は伝説として存在するし、
そこで苦しんだリアルタイム視聴者たちもまた
エンドレスエイト」を支えた一員へと
昇華したわけで、ますます羨ましい。

劇中で小泉がキョンに語ったように
デジャブを感じられるのは内側にいる者だけ。
つまり苦しんだ視聴者は内側の人間なのだから。


さて翻ってアニメ令和「うる星」である。

原作や昭和アニメとの差異を楽しむ、
ということにも限界があって、
アニメーションの不出来、演出の不出来、
構成の不出来、に対して
僕にとっては視聴が苦痛なところまで来ている。
「可愛さ余って憎さ 100 倍」とはよくいったものだ。

ただ残念なことに、「うる星」については
“腐れ縁”特別配点が 250 ポイントと
“ノスタルジー”特別配点が 200 ポイントあるのだ。
それだけで視聴を継続することになってしまう。

苦しみながら視聴しているのだけれども、
エンドレスエイト」は面白かったのに
なぜ令和「うる星」は苦しいのか。

“不満”の方向性が違うからなのかな。


エンドレスエイト」の問題は
ポリシー/理念の問題である。

令和「うる星」の問題は
でき得ることをやらない、その態度の問題である。


PA ワークスが、MAPPA が、ufotable が、京アニが
WIT が、シャフトが、TRIGGER が、ボンズが
やれるのになぜ令和「うる星」にはできないのか。

彼らは制作コストを省かなかったのに
なぜ令和「うる星」は省くのか。
それはどういう事情に起因するのか。


これはしかし例えば
“親ガチャ”のテーマとはちょっと違う。

スヌーピーの言う、「配られたカード」とも
ちょっと違う。

「うる星」の場合は、誰かがそう仕向けたのだし、
そしてそれは神の采配などという
“不可抗力”ではないのだ。


僕はアニメ業界の人間ではないから
その事業がどういうふうに回っているのか
よくは知らないけれど、
例えばこの作品のクオリティが
2 クール一括グロスを理由とする
気の緩みのせいなら、
もしかしたら後半 2 クールは
別のプロダクションに発注される可能性も
なくはない(し、僕はそれを夢見ている)。

例えば上記の、“神”制作会社に回ることも
あるかもしれない。

現状の令和「うる星」に
“満足している”と言い切る人は、
そういった“神”制作会社が作る「うる星」と
比較してもやはり、
前半 2 クールの「うる星」を
“満足の出来”というのだろうか。


自分の好きなキャラを
新しい放送で見られればいい、という意向も
あることは理解しているし、
それはそれで尊重されるべきだろう。
その一点で、令和「うる星」を
「好き」だということには何も問題がないし
そういう楽しみ方は、本能的であるともいえる。

しかしだからといって、自分が好きな作品に
低評価が付くのを認めないというのは違う。
自分が好きなものには高評価であってほしい、
というのは権威主義だ。

低レベルの作品だけど
ある一点において自分は好きなのだ、
でいいではないか。


物事は、低評価が付かないと改善されない。
だから低レベルなものには
低評価を付けるべきだし、
全肯定などめったなことではしてはならんのだ。




Twitter でもリツィートしたが

trend-tracer.com


sensiki さんによるこのブログは
令和「うる星」の持つ問題点を視覚化していて
とてもわかりやすい投稿だ。

批判したことを以て、この方を
「うる星」愛がないというのは間違いで、
めちゃくちゃ愛情に溢れた文章だと僕は思った。
“旧作愛”ではなく、“うる星愛”だと。

ただ旧作と比較したのはやっぱり悪手で、
一部のヒステリーを
喚起してしまったのではないだろうか。
そうしたい気持ちは痛いほどわかるけれども。