ぼちぼちと更新していければ

(毎週土曜日中の更新を目指しています)









令和の世に るーみっく はエモいか?


どこで読んだのかもう忘れましたが、
2022年の春ぐらいの
「うる星」の新アニメ化を受けたテキストで、
高橋留美子作品は
令和の漫画やアニメに比べると
人物の内面の描写が少ない(だったかな)
というような記事を読んだ気がします。

確かに高橋留美子作品では、キャラが
思ったことをすぐ口にしてしまう傾向があって
“言葉にできない思い”というのは
多くはない印象ですが、
それでも少なくはないような。

まぁ例えばベタ中のベタですがこれ。

(16-5)
ラムの情けない表情に
すごくいろんな気持ちが詰まっていて
見事な一コマだと思います。

しかしいかんせんベタ過ぎるきらいもあって、
このエピソードではむしろ

ランとデート中なのにレイが
(ギャグ抜きで)すぐさま反応すること、

それをギャグテイストに持ち込もうとしたランが

異変に気付き、ギャグを取り下げて素を出すこと。

隠し立てしても、芯の部分では親友思いなところが
本当のランちゃんであり、
レイも含めてこの一連は最高にエモい。
「うる星」がコメディであることを
逆手に取った構成で、見事だと思います。


まぁそんな感じで、
内面描写は言うほど少なくないと思いますが
ちょっと思い当たるのは
「うる星」や「めぞん」では
キャラが“コンプレックス”を
あまり持ってないんですよね。

「うちは宇宙人だから」
「わたしはバツイチだから」
「おれは劣等生だから」
「おれは下層民だから」
ってのがあまりない。

(10-4)
ポジティブといえば聞こえはいいけど、
屈託がないというか、現状認識が甘いというか。

困難を乗り越える、というのは
「うる星」にしろ「めぞん」にしろ
エピソードとして存在するのですが、
およそ“努力”というのが存在しないのは確かです。

努力がないから、成長もない。それは確か。

そこの部分では、
前述のテキストで言われているように
事象のみがあって、
キャラが自身の努力によって
何かを変えた、ということはない。

まぁ言いたかないけど
作者さんもたいがい苦労知らずっぽいしなぁ。


なんでしょうね、
判断すべきところでどちらにするか悩む、
なんていうのはわりと簡単なことであって、
悩んでもしかたのないことだったり
悩んだところでどうにもならないみたいなことが
“ドラマ”なんじゃないかと思うんですよ。

それでもがんばって、
自分なりに答えを出すという
そのプロセスに感動があるわけで、
そういった意味では例えば
「ボーイ ミーツ ガール」でさえ、
あたるが最後まで
不器用な しかし愛すべき男性性だった、という
少し昭和じみた感動の持っていき方に終始しており
ごっこにおいて限界まで“走った”としても
それは男性性を貫き通したという頑張りであり、
その“意地”というものには“変化”がない分、
変化がないことに感動しろと言われても
令和の、他に感動巨編が
掃いて捨てるほどある現状では
それほど気持ちはアガらないよね、という。


結局、今の世の中
セカイ系以後、ってことなのかな、と思います。
シンジとレイとか、天気の子の帆高と陽菜とか。
みんな誰かのためにがんばったわけで。


犬夜叉」とか「MAO」では
キャラが誰かのために
ものすごく頑張っているかもしれませんね。
だとしたらいいのですが。〈おしまい〉